・・・ あたしの家は谷中三崎町。」「君一人で住んでいるの?」「いいえ、お友だちと二人で借りているんです。」 わたしはこんな話をしながら、静物を描いた古カンヴァスの上へ徐ろに色を加えて行った。彼女は頸を傾けたまま、全然表情らしいものを示・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・自分はある友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・根津を抜けて帰るつもりであったが頻繁に襲って来る余震で煉瓦壁の頽れかかったのがあらたに倒れたりするのを見て低湿地の街路は危険だと思ったから谷中三崎町から団子坂へ向かった。谷中の狭い町の両側に倒れかかった家もあった。塩煎餅屋の取散らされた店先・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・ 二日 事ム所まで行って見ると、三崎町辺、呉服橋ぎわ、その他に人間の死体がつみかさね、やけのこりのトタン板をかぶせてある。なるたけ見ないようにして行く。二人の老婆をどうして逃そうかと、松坂屋に火のついたとき、心配此上なかった。・・・ 宮本百合子 「大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録」
出典:青空文庫