・・・ぼくはおとうさんにはなんにもいわないで、すぐ上がり口に行った。そこは真暗だった。はだしで土間に飛びおりて、かけがねをはずして戸をあけることができた。すぐ飛び出そうとしたけれども、はだしだと足をけがしておそろしい病気になるとおかあさんから聞い・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・省作は庭場の上がり口へ回ってみると煤けて赤くなった障子へ火影が映って油紙を透かしたように赤濁りに明るい。障子の外から省作が、「今晩は、お湯をもらいに出ました」「まア省作さんですかい。ちとお上がんさい。今大話があるとこです」 とい・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 赤犬は、毎日、御堂の上がり口におとなしく腹ばいになって、和尚さまのあげるお経を熱心に聞いていたのであります。和尚さまは、どんな日でもお勤めを怠られたことはありません。赤犬も、お経のあげられる時分には、ちゃんときて、いつものごとく瞼を細・・・ 小川未明 「犬と人と花」
・・・ 見ればなるほど三畳敷の一間に名ばかりの板の間と、上がり口にようやく下駄を脱ぐだけの土間とがあるばかり、その三畳敷に寝床が二つ敷いてあって、豆ランプが板の間の箱の上に載せてある。その薄い光で一ツの寝床に寝ている弁公の親父の頭がおぼろに見・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・中古の建物だから、それほど見苦しくはない。上がり口の四畳半が玄関なり茶の間なり長火鉢これに伴なう一式が並べてある。隣が八畳、これが座敷、このほかには台所のそばに薄暗い三畳があるばかり。南向きの縁先一間半ばかりの細長い庭には棚を造り、翁の楽し・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・朝早く起きてヴェランダへ出て見ると、もうちゃんと上がり口の階段の前へ来て待っている。人を見ると低い声でガーガーガーと三声か四声ぐらい鳴く。有り合わせの餌を一片二片とだんだん近くへ投げてやると、おしまいには、もう手に持っているカステイラなどを・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・何と云って形容したらいいか分らないが、とにかく満員電車の上がり口につかまってぶら下がっているような一種の緊張が到る処に見出された。例えば飛行機に乗ってこれから蒼空へ飛び出そうというような種類の緊張はあまり見つからなかった。 日本でも田舎・・・ 寺田寅彦 「電車と風呂」
・・・昔北欧を旅行したとき、たしかヘルシングフォルスの電車の運転手が背広で、しかも切符切りの車掌などは一人もいず、乗客は勝手に上がり口の箱の中へかねて買い置きの白銅製の切符を投げ入れていたように記憶している。こんなのんびりした国もあるのかと思った・・・ 寺田寅彦 「破片」
・・・ベランダの天井の電燈は消えていたが上がり口の両側の柱におのおの一つずつの軒燈がともり、対岸にはもちろん多数の電燈が並んでいた。 突然二十一歳になるAが「今火の玉が飛んだ」といいだすと、十九歳になるBが「私も見た」といってその現象の客観的・・・ 寺田寅彦 「人魂の一つの場合」
・・・出臍の圭さんは、はっくしょうと大きな苦沙弥を無遠慮にやる。上がり口に白芙蓉が五六輪、夕暮の秋を淋しく咲いている。見上げる向では阿蘇の山がごううごううと遠くながら鳴っている。「あすこへ登るんだね」と碌さんが云う。「鳴ってるぜ。愉快だな・・・ 夏目漱石 「二百十日」
出典:青空文庫