・・・今夜、揚花火の結びとして、二尺玉が上るということになって居て、町の若者達もその直径二尺の揚花火の玉については、よほど前から興奮して話し合っていたのです。その二尺玉の花火がもう上る時刻なので、それをどうしてもお母さんに見せると言ってきかないの・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ こうした嘆声がいつとなく私の口に上るのであった。 戦場でのすさまじい砲声、修羅の巷、残忍な死骸、そういうものを見てきた私には、ことにそうした静かな自然の景色がしみじみと染み通った。その対照が私に非常に深く人生と自然とを思わせた。・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・そうして第八日第九日目を十分に休養した後に最後の第十日目に一気に頂上まで登る、という、こういうプランで遂行すれば、自分のような足弱でも大丈夫登れるであろう。 こんなことをいいながら星野の宿へ帰って寝た。ところがその翌日は両方の大腿の筋肉・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・ ……民衆の旗、赤旗は…… 一人の男は、跳び上るような姿勢で、手を振っている……と、お初は、思わず声をあげた。「アッ、利助が、あんた利助が?」 お初は、利平の腕をグイグイ引ッ張った。「ナニ利助?」 まったく! 目を瞠・・・ 徳永直 「眼」
・・・ 根津権現の社頭には慶応四年より明治二十一年まで凡二十一年間遊女屋の在ったことは今猶都人の話柄に上る所である。小西湖佳話に曰く「湖北ノ地、忍ヶ岡ト向ヶ岡トハ東西相対ス。其間一帯ノ平坦ヲ成ス。中ニ花柳ノ一郭アリ。根津ト曰フ。地ハ神祠ニ因ツ・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ この時いずくよりか二疋の蟻が這い出して一疋は女の膝の上に攀じ上る。おそらくは戸迷いをしたものであろう。上がり詰めた上には獲物もなくて下り路をすら失うた。女は驚ろいた様もなく、うろうろする黒きものを、そと白き指で軽く払い落す。落されたる・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・この歪んだ階段を昇ると、倉庫の中へ入る。入ったが最後どうしても出られないような装置になっていて、そして、そこは、支那を本場とする六神丸の製造工場になっている。てっきり私は六神丸の原料としてそこで生き胆を取られるんだ。 私はどこからか、そ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 店梯子を駈け上る四五人の足音がけたたましく聞えた。「お客さまア」と、声々に呼びかわす。廊下を走る草履が忙しくなる。「小万さんの花魁、小万さんの花魁」と、呼ぶ声が走ッて来る。「いやだねえ、今時分になって」と、小万は返辞をしないで眉を・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・小中大といえば、順序をへて次第に上るべきように聞れども、事実、人の貧富、才・不才にしたがって、はじめより区別するか、あるいは入学の後、自然にその区別なきを得ず。世の中の大勢これをいかんともすべからざるなり。 右の如く学校の種類を二に分け・・・ 福沢諭吉 「小学教育の事」
・・・思想之法則は人間の頭に上る思想を整理するだけで、其が人間の真生活とどれだけの関係があるか。心理学上、人間は思想だけじゃない。精神活動力の現われ方には情もあれば知もあり意もある。それを思想だけ整理しても駄目じゃないか。成程、相等しき物は同一な・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
出典:青空文庫