・・・今赤い靄が立ち昇る。あの靄の輪廓に取り巻かれている辺には、大船に乗って風波を破って行く大胆な海国の民の住んでいる町々があるのだ。その船人はまだ船の櫓の掻き分けた事のない、沈黙の潮の上を船で渡るのだ。荒海の怒に逢うては、世の常の迷も苦も無くな・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・判者が外の人であったら、初から、かぐや姫とつれだって月宮に昇るとか、あるいは人も家もなき深山の絶頂に突っ立って、乱れ髪を風に吹かせながら月を眺めて居たというような、凄い趣向を考えたかもしれぬが、判者が碧梧桐というのだから先ず空想を斥けて、な・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・それはみな霜を織ったような羅をつけすきとおる沓をはき私の前の水際に立ってしきりに東の空をのぞみ太陽の昇るのを待っているようでした。その東の空はもう白く燃えていました。私は天の子供らのひだのつけようからそのガンダーラ系統なのを知りました。また・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・二人の精霊はあとじさりをし精女はおどろいてとび上る。精女 アラー? マア――……第三の精霊 これまでに――お主を……命にかけてとまで思って居るのじゃ。精女 お立ち下さいませ、泥がつきます。私は貴方さまにそんなにしていただ・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・数馬は振り切って城の石垣に攀じ登る。島も是非なくついて登る。とうとう城内にはいって働いて、数馬は手を負った。同じ場所から攻め入った柳川の立花飛騨守宗茂は七十二歳の古武者で、このときの働きぶりを見ていたが、渡辺新弥、仲光内膳と数馬との三人が天・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・竹藪に伏勢を張ッている村雀はあらたに軍議を開き初め、閨の隙間から斫り込んで来る暁の光は次第にあたりの闇を追い退け、遠山の角には茜の幕がわたり、遠近の渓間からは朝雲の狼煙が立ち昇る。「夜ははやあけたよ。忍藻はとくに起きつろうに、まだ声をも出だ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・デクレスは最後に席を蹴って立ち上ると、慰撫する傍のネー将軍に向って云った。「陛下は気が狂った。陛下は全フランスを殺すであろう。万事終った。ネー将軍よ、さらばである」 ナポレオンはデクレスが帰ると、忿懣の色を表してひとり自分の寝室へ戻・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・先下々の者が御挨拶を申上ると、一々しとやかにお請をなさる、その柔和でどこか悲しそうな眼付は夏の夜の星とでもいいそうで、心持俯向いていらっしゃるお顔の品の好さ! しかし奥様がどことなく萎れていらしって恍惚なすった御様子は、トント嬉かった昔を忍・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・ 舞台に上る三時間は彼女の生活の幕間なのである。彼女は生活の全力を集めて舞台に尽くしているのではない。意味のあるのは舞台外の生活だ。……美しい手で確乎と椅子の腕を握り、じっとして思索に耽っている時のまじめな眠りを催すような静寂。体は横の・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫