・・・これから改まって挨拶が済むと、雑談に移り、武は叔父叔母さし向かいで、たいがい毎日碁を打つ事、娘ふたりはきょう上野公園に散歩に出かけた事など聞かされた。 右の次第で徳さんの武もついに手をひいて半年余りもたつと、母はやっぱり気になると見えて・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・私は上野公園で音楽学校の女生徒をいちいち後をつけて、「僕を愛してくれますか」ときこうかと真面目に思ったことがある。そんなときは一番危ない。これはそんなに焦らずとも、待っていれば運命は必ずチャンスを与えるのだ。自分がまだごく若く、青春がまだま・・・ 倉田百三 「学生と生活」
おのれの行く末を思い、ぞっとして、いても立っても居られぬ思いの宵は、その本郷のアパアトから、ステッキずるずるひきずりながら上野公園まで歩いてみる。九月もなかば過ぎた頃のことである。私の白地の浴衣も、すでに季節はずれの感があ・・・ 太宰治 「座興に非ず」
・・・私は馬場と上野公園内の甘酒屋で知り合った。清水寺のすぐちかくに赤い毛氈を敷いた縁台を二つならべて置いてある小さな甘酒屋で知り合った。 私が講義のあいまあいまに大学の裏門から公園へぶらぶら歩いて出ていって、その甘酒屋にちょいちょい立ち寄っ・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・私はひとりで外へ出て見ました。このあたりも、まず、あらかた焼かれていました。私は上野公園の石段を登り、南洲の銅像のところから浅草のほうを眺めました。湖水の底の水草のむらがりを見る思いでした。これが東京の見おさめだ、十五年前に本郷の学校へはい・・・ 太宰治 「たずねびと」
・・・ そう言って上野公園の方に歩いて行き、私は少しずつおしゃべりになって行きました。「実は、僕なんにも見て来なかったんです。自分自身の苦しさばかり考えて、ただ真直を見て、地下道を急いで通り抜けただけなんです。でも、君たちが特に僕を選んで・・・ 太宰治 「美男子と煙草」
・・・ 僕たちは駅から出て上野公園に向った。「兵隊だって見栄坊さ。趣味のきわめて悪い見栄坊さ。」 帝国主義の侵略とか何とかいう理由からでなくとも、僕は本能的に、或いは肉体的に兵隊がきらいであった。或る友人から「服役中は留守宅の世話云々・・・ 太宰治 「未帰還の友に」
ある日、浜町の明治座の屋上から上野公園を眺めていたとき妙な事実に気がついた。それは上野の科学博物館とその裏側にある帝国学士院とが意外に遠く離れて見えるということである。この二つの建築物の前を月に一度くらいは通るので、近くで・・・ 寺田寅彦 「観点と距離」
・・・やっと外へ出て見るとそこは上野公園のような処で、自動車やボーイスカウツが群集している。敵の飛行機から毒瓦斯の襲撃を受けたときの防禦演習をしているのだという。サイレンが鳴ると思ったら眼が覚めた。汽車はもう仙台へ着いていた。 帰宅してみると・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・いずれも何一つ持出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て○○人の放火者が徘徊するから注意しろと云ったそうだ。井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえて来る。こんな場末の町へまでも荒して歩くためには一体何千キ・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
出典:青空文庫