・・・そして、それを弾いている人は、けっして下手ではありませんでした。けれど、彼は、自分のおじいさんからもらった、バイオリンには、けっして、他のバイオリンにはない、音色の出ることを感じていました。「あのバイオリンじゃない。」 彼は、がっか・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・ 浜子は世帯持ちは下手ではなかったが、買物好きの昔の癖は抜けきれず、おまけに継子の私が戻ってみれば、明日からの近所の思惑も慮っておかねばならないし、頼みもせぬのに世話を焼きたがるおきみ婆さんの口も怖いと、生みの母親もかなわぬ気のよさを見・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 川水は荒神橋の下手で簾のようになって落ちている。夏草の茂った中洲の彼方で、浅瀬は輝きながらサラサラ鳴っていた。鶺鴒が飛んでいた。 背を刺すような日表は、蔭となるとさすが秋の冷たさが跼っていた。喬はそこに腰を下した。「人が通る、・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・『そうですね、しかしかえってこんな色の方がごまかされて描きよいかもしれません、』と小山は笑いながら答えた。『下手な画工が描きそうな景色というやつに僕は時々出あうが、その実、実際の景色はなかなかいいんだけれども。』『だから下手が飛・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・客間と食堂とを兼ねている部屋からは、いかにも下手でぞんざいな日本人のロシア語がもれて来た。「寒いね、……お前さん、這入ってらっしゃい。」 入口の扉が開いて、踵の低い靴をはいた主婦が顔を出した。 馭者は橇の中で腰まで乾草に埋め、頸・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・となく気に入ったので切とこの猪口を面白がると、その娘の父がおれに対って、こう申しては失礼ですが此盃がおもしろいとはお若いに似ずお目が高い、これは佳いものではないが了全の作で、ざっとした中にもまんざらの下手が造ったものとは異うところもあるよう・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・いは金力と申す条まず積ってもごろうじろわれ金をもって自由を買えば彼また金をもって自由を買いたいは理の当然されば男傾城と申すもござるなり見渡すところ知力の世界畢竟ごまかしはそれの増長したるなれば上手にも下手にも出所はあるべしおれが遊ぶのだと思・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・「ではしっかりたのむよ。下手をすると、私ばかりではない、おまえたち三人のくびもとぶのだよ。」と、王子は笑いながらこう言いました。長々たち三人は、「なに、だいじょうぶでございます。」と、すましていました。 そのうちにすっかり日がく・・・ 鈴木三重吉 「ぶくぶく長々火の目小僧」
・・・博士は、ときどき、思い出しては、にやにや笑い、また、ひとり、ひそかにこっくり首肯して、もっともらしく眉を上げて吃っとなってみたり、あるいは全くの不良青少年のように、ひゅうひゅう下手な口笛をこころみたりなどして歩いているうちに、どしんと、博士・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・特に言語などを機械的に暗記する事の下手な彼には当時の軍隊式な詰め込み教育は工合が悪かった。これに反して数学的推理の能力は早くから芽を出し初めた。計算は上手でなくても考え方が非常に巧妙であった。ある時彼の伯父に当る人で、工業技師をしているヤー・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫