・・・何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のようだと思ってごらん。それで俺達の憂鬱は完成するのだ。 ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている! いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の・・・ 梶井基次郎 「桜の樹の下には」
・・・そして彼自身かなり不愉快になっていた。 そのうちにふと、先ほどの花火が思い出されて来た。「先ほどの花火はまだあがっているだろうか」そんなことを思った。 薄明りの平野のなかへ、星水母ほどに光っては消える遠い市の花火。海と雲と平野の・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・「会っても知らん顔していれば可いじゃア御座いませんか。」「不愉快です。殊に今度貴女に会った場合、猶不快です。」 翌朝早大友は大東館を立った。大友ばかりでなく神崎や朝田も一緒である。見送り人の中にはお正も春子さんもいた。・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
なか/\取ッつきの悪い男である。ムッツリしとって、物事に冷淡で、陰鬱で、不愉快な奴だ。熱情なんど、どこに持って居るか、そんなけぶらいも見えん。そのくせ、勝手な時には、なか/\の感情家であるのだ。なんでもないことにプン/\お・・・ 黒島伝治 「自画像」
・・・ませぬけれども、元来そういうものじゃないので、ただ魚釣をして遊ぶ人の相手になるまでで、つまり客を扱うものなんですから、長く船頭をしていた者なんぞというものはよく人を呑込み、そうして人が愉快と思うこと、不愉快と思うことを呑込んで、愉快と思うよ・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ひとが何かいうと、けッという奇怪な、からす天狗の笑い声に似た不愉快きわまる笑い声を、はばからず発するのである。ゲエテ一点張りである。これとても、ゲエテの素朴な詩精神に敬服しているのではなく、ゲエテの高位高官に傾倒しているらしい、ふしが、無い・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・その中で焼餅話をするとなると、いよいよ不愉快である。ドリスも毎日霧の中を往復するので咳をし出した。舞台を休んで内にいる晩は、時間の過しように困る。女の話すことだけ聞くのに甘んじないで、根問いをすると、女はそんな目に逢ったことがないので厭がる・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・脚の腓のところが押しつけられるようで、不愉快で不愉快でしかたがない。ややともすると胸がむかつきそうになる。不安の念がすさまじい力で全身を襲った。と同時に、恐ろしい動揺がまた始まって、耳からも頭からも、種々の声が囁いてくる。この前にもこうした・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・気の永いアインシュタインもかなり不愉快を感じたと見えて、急にベルリンを去ると云い出した。するとベルリン大学に居る屈指の諸大家は、一方アインシュタインをなだめると同時に、連名で新聞へ弁明書を出し、彼に対する攻撃の不当な事を正し、彼の科学的貢献・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・こわれた器械からでも出るような、不愉快なその声がしきりにやっていた。 道太は初め隣に気狂いでもいるのかと思ったが、九官鳥らしかった。枕もとを見ると、舞妓の姿をかいた極彩色の二枚折が隅に立ててあって、小さい床に春琴か何かが懸かっていた。次・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫