・・・寝床にはいるなり、前後不覚に寝てしまったんだ」 十日ほどたって、また行くと、しょげていた。「何だか元気がないね」「新券になってから、煙草が買えないんだ」「旧券のうちに、買いためて置くという手は考えたの」「考えたが、外出す・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・蒲団の裾を枕にすると、もう前後不覚だった。二時間ばかり経って、うっとりと眼をあけた女中は、眠っていた間何をされたかさすがに悟ったらしかったが、寺田を責める風もなく、私夢を見てたのかしらと言いながら起ち上ると、裾をかき合せて出て行った。寺田は・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・殆ど前後不覚に酔っぱらってしまった。 カンバンになって「カスタニエン」を追い出されてからも、どこをどう飲み歩いたか、難波までフラフラと来た時は、もう夜中の三時頃だった。頭も朦朧としていたが、寄って来る円タクも朦朧だった。「天下茶屋ま・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・ と言いながら、道子は不覚にも涙を落し、「あ、こんなに取り乱したりして、きっと口答試問ではねられてしまうわ。」 と心配したが、それから一月余り経ったある朝の新聞の大阪版に、合格者の名が出ていて、その中に田村道子という名がつつまし・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
・・・れこの時二郎に向かって、よししからばわが言うをきけ、人は到底陸の動物なり、かつなんじはわれらと共になすべき業を有すと言い放つを願わざりしにはあらねど、されど二郎ほどの男、わが言葉によりて感憤するほどの不覚をなさじ、かれ必ずかれの志あり、海を・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・人々はそわそわし初めた、ただ今井の叔父さんは前後不覚の体である。 僕は戸外へ飛びだした。夜見たよりも一段、蕭条たる海辺であった。家の周囲は鰯が軒の高さほどにつるして一面に乾してある。山の窪みなどには畑が作ってあってそのほかは草ばかりでた・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・といった、また左衛ノ尉の悲嘆に乱れるのを叱って、「不覚の殿原かな。是程の喜びをば笑えかし。……各々思い切り給え。此身を法華経にかうるは石にこがねをかえ、糞に米をかうるなり」 かくて濤声高き竜ノ口の海辺に着いて、まさに頸刎ねられん・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 今度は自分の不覚を自分で叱る意で毒喝したのである。余程肚の中がむしゃくしゃして居て、悪気が噴出したがっていたのであろう。 叱咤したとて雪は脱れはしない、益々固くなって歯の間に居しこるばかりだった。そこで、ふと見ると小溝の上に小さな・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・その有様を見ているうちに、さすがに私も、この弟子たちと一緒に艱難を冒して布教に歩いて来た、その忍苦困窮の日々を思い出し、不覚にも、目がしらが熱くなって来ました。かくしてあの人は宮に入り、驢馬から降りて、何思ったか、縄を拾い之を振りまわし、宮・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・なかなかの柄であって、われは彼の眉間の皺に不覚ながら威圧を感じた。この男の弟子には、日本一の詩人と日本一の評論家がいるそうな。日本一の小説家、われはそれを思い、ひそかに頬をほてらせた。教授がボオルドに問題を書きなぐっている間に、われの背後の・・・ 太宰治 「逆行」
出典:青空文庫