・・・年だって六十五というと、そんなに不足という方でもないんだし……」「そう言うとそんなものだがな……」 青森へは七時に着いた。やはりいい天気であった。汽船との連絡の待合室で顔を洗い、そこの畳を敷いた部屋にはいって朝の弁当をたべた。乗替え・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・夢のなかの喬はそれを不足そうな顔で、黙って見ている。 一対ずつ一対ずつ一列の腫物は他の一列へそういうふうにしてみな嵌まってしまった。「これは××博士の法だよ」と母が言った。釦の多いフロックコートを着たようである。しかし、少し動いても・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・お光などのように兵隊の気嫌まで取て漸々御飯を戴いていく女もあるから、お前さんなんぞ決して不足に思っちゃなりませんよ」 皮肉も言い尽して、暫らく烟草を吹かしながら坐っていたが、時計を見上げて、「どうせ避けた位だからちょっくら帰って来な・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・国土というものに対して活きた関心を持たぬのは、これまでのこの国の知識青年の最大の認識不足なのである。今や新しい転換がきつつある。 しかし日蓮の熱誠憂国の進言も幕府のいれるところとならず、何の沙汰もなかった。それのみか、これが機縁となって・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・嚢中足らずして興薄く、陸にて行かば苦み多からんが興はあるべし。嚢中不足は同じ事なれど、仙台にはその人無くば已まむ在らば我が金を得べき理ある筋あり、かつはいささかにても見聞を広くし経験を得んには陸行にしくなし。ついに決断して青森行きの船出づる・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・彼らは、たいてい栄養の不足や、過度の労働や、汚穢なる住居や、有毒なる空気や、激甚なる寒暑や、さては精神過多等の不自然な原因から誘致した病気のために、その天寿の半ばにも達せずして、紛々として死に失せるのである。ひとり病気のみでない。彼らは、餓・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・俺の場合、それは運動不足からくるむくみでも何んでもなく、はじめて身体が当り前にかえって行くこの上もない健康からだった。 俺だちの仲間は、今でも刑務所へ行くことを「別荘行」と云っている。ドンな場合でも決して屈することのないプロレタリアの剛・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・坊やは、来年は四つになるのですが、栄養不足のせいか、または夫の酒毒のせいか、病毒のせいか、よその二つの子供よりも小さいくらいで、歩く足許さえおぼつかなく、言葉もウマウマとか、イヤイヤとかを言えるくらいが関の山で、脳が悪いのではないかとも思わ・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・ただ残念に思うのは、外国の多くの実例と比較したときに感ぜられる音楽の容量の乏しさと、高く力強く盛り上がって来るような加速的構成の不足である。もう一層の深い研究が望ましいと思われる。 主役のすみれ娘はオリジナルな愛嬌と頭脳の持主らしく随所・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(5[#「5」はローマ数字、1-13-25])」
・・・それより猶お女のつれないということが彼には当然のことなのでそれを格別不足に思うということはなくなって居たのである。女房とすら彼は余所目には打ち解けなかった。朝夕顔を見合わす間柄はそんなに追従いうことの出来ないのは当然である。だが其兄とさえ昵・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫