・・・ウェデキンドの芝居だと、この半時間ばかりの間にも、不遇の音楽家が飛びこんで来たり、どこかの奥さんが自殺したり、いろいろな事件が起るのですが、――御待ちなさいよ。事によると机の抽斗に、まだ何か発表しない原稿があるかも知れません。編輯者 そ・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・だが、江戸の作者の伝統を引いた最後の一人たる緑雨の作は過渡期の驕児の不遇の悶えとして存在の理由がある。緑雨の作の価値を秤量するにニーチェやトルストイを持出すは牛肉の香味を以て酢の物を論ずるようなものである。緑雨の通人的観察もまたしばしば人生・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・政治家や実業家には得てこういう人を外らさない共通の如才なさがあるものだが、世事に馴れない青年や先輩の恩顧に渇する不遇者は感激して忽ち腹心の門下や昵近の知友となったツモリに独りで定めてしまって同情や好意や推輓や斡旋を求めに行くと案外素気なく待・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・いままでも時代の不遇に泣く人々はあったが、しかし、今日彼等の群は、ありの群よりも多数者である。生きるも、死ぬも、これ等の集団は存在している。ありがもりもりと巣から出るように、地底から、気味悪い迫力をもって、社会の表面へ出ようとするのを感ぜず・・・ 小川未明 「近頃感じたこと」
・・・ さらに、貧しい家に生れ、不遇に育った少年にしたところが、幸福の生活ということは、金持になることであり、また名誉を得るということは、立派な役人になることだけだと解するようなことがあってはならない。なぜなら、幸福とか名誉とかを思う者は人類・・・ 小川未明 「童話を書く時の心」
・・・は天衣無縫の棋風として一世を風靡し、一時は大阪名人と自称したが、晩年は不遇であった。いや、無学文盲で将棋のほかには何にも判らず、世間づきあいも出来ず、他人の仲介がなくてはひとに会えず、住所を秘し、玄関の戸はあけたことがなく、孤独な将棋馬鹿で・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ しかし、その金額や、その一歩も譲らない態度は、庄之助自身を不遇な音楽的境遇に陥れた楽壇への復讐であった。 そしてまた、楽壇の腐敗した空気に対する挑戦でもあった。かつての音楽家はつねにマネージャーやレコード会社の社員の言いなりになり・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・私はSは両親も兄弟も親戚もない、不遇な男であることを想い出した。彼はたった一人の見送人である私を待ち焦れながら、雨の土砂降の中を銃剣を構えて、見張りの眼をピカピカ光らせていたのだ。言葉少く顔見合せながら、私達のお互いの心には瞬間、温く通うも・・・ 織田作之助 「面会」
・・・ このひとり者が翁の不遇の原因をなしたのか、不遇がひとり者の原因であったのか、これをわかつことはできない。 善人で、酒もしいては飲まず、これという道楽もなく、出入交際の人々には義理を堅くしていて、そしてついに不遇で、いつもまごまごし・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・に接して、私は埋もれたる無名不遇の天才を発見したと思って興奮したのである。 嘘ではないか? 太宰は、よく法螺を吹くぜ。東京の文学者たちにさえ気づかなかった小品を、田舎の、それも本州北端の青森なんかの、中学一年生が見つけ出すなんて事は、ま・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
出典:青空文庫