・・・ またそう云う臆病ものの流れを汲んだあなたとなれば、世にない夫の位牌の手前も倅の病は見せられません。新之丞も首取りの半兵衛と云われた夫の倅でございます。臆病ものの薬を飲まされるよりは腹を切ると云うでございましょう。このようなことを知っていれ・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・ 四、佐藤の詩情は最も世に云う世紀末の詩情に近きが如し。繊婉にしてよく幽渺たる趣を兼ぬ。「田園の憂欝」の如き、「お絹とその兄弟」の如き、皆然らざるはあらず。これを称して当代の珍と云う、敢て首肯せざるものは皆偏に南瓜を愛するの徒か。・・・ 芥川竜之介 「佐藤春夫氏の事」
・・・それにしても聖処女によって世に降誕した神の子基督の御顔を、金輪際拝し得られぬ苦しみは忍びようがなかった。クララはとんぼがえりを打って落ちながら一心不乱に聖母を念じた。 ふと光ったものが眼の前を過ぎて通ったと思った。と、その両肱は棚のよう・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 人の妻と、かかる術して忍び合うには、疾く我がためには、神なく、物なく、父なく、母なく、兄弟なく、名誉なく、生命のないことを悟っていたけれども、ただ世に里見夫人のあるを知って、神仏より、父より、母より、兄弟より、名誉より、生命よりは便に・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・萌えつつも、北国の事なれば、薄靄ある空に桃の影の紅染み、晴れたる水に李の色蒼く澄みて、午の時、月の影も添う、御堂のあたり凡ならず、畑打つものの、近く二人、遠く一人、小山の裾に数うるばかり稀なりしも、浮世に遠き思ありき。 本堂正面の階に、・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 世に親というものがなくなったときに、われらを産んでわれらを育て、長年われらのために苦労してくれた親も、ついに死ぬ時がきて死んだ。われらはいま多くのわが子を育てるのに苦労してるが……と考えた時、世の中があまりありがたくなく思われだした。・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・今日の上流社会の邸宅を見よ、何処にも茶室の一つ位は拵らえてある、茶の湯は今日に行われて居ると人は云うであろう、それが大きな間違である、それが茶の湯というものが、世に閑却される所以であろう、いくら茶室があろうが、茶器があろうが、抹茶を立て・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・けれ共奥方は武士の娘なので世に例のある事だからと知らぬ振してすぎて居た。それだのに小吟はいいきになってやめないので家も乱れるほどになったので事をへだてぬ夫婦の間の事だからおいさめになると旦那も今までの事はほんとうに悪かったとさとってそれから・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・しかし簡単ではあるが容易ではありませんでした。世に御し難いものとて人間の作った沙漠のごときはありません。もしユトランドの荒地がサハラの沙漠のごときものでありましたならば問題ははるかに容易であったのであります。天然の沙漠は水をさえこれに灑ぐを・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・ 世に、相許さざるものがある。強権と友愛、所有と無欲、これである。平和への手段として、強権を肯定することは、畢竟、暴力の讃美に他ならない。この意味に於て平和への途は、強権を否定して、他の真理に道を見出すことである。所有することに於て・・・ 小川未明 「自由なる空想」
出典:青空文庫