・・・人情の向背も、世故の転変も、つぶさに味って来た彼の眼から見れば、彼等の変心の多くは、自然すぎるほど自然であった。もし真率と云う語が許されるとすれば、気の毒なくらい真率であった。従って、彼は彼等に対しても、終始寛容の態度を改めなかった。まして・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・ 小説家 最も善い小説家は「世故に通じた詩人」である。 言葉 あらゆる言葉は銭のように必ず両面を具えている。例えば「敏感な」と云う言葉の一面は畢竟「臆病な」と云うことに過ぎない。 或物質主・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・それが、嚢の口から順々に這い出して火の気のない部屋の中を、寒そうにおずおず歩いたり、履の先から膝の上へ、あぶない軽業をして這い上りながら、南豆玉のような黒い眼で、じっと、主人の顔を見つめたりすると、世故のつらさに馴れている李小二でも、さすが・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・ この質問には丹波先生も、いささか急所をつかれた感があったらしい。世故に長けた先生はそれにはわざと答えずに、運動帽を脱ぎながら、五分刈の頭の埃を勢よく払い落すと、急に自分たち一同を見渡して、「そりゃ毛利先生は、随分古い人だから、我々・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・白い歯は見せないぞという気持ちが、世故に慣れて引き締まった小さな顔に気味悪いほど動いていた。 彼にはそうした父の態度が理解できた。農場は父のものだが、開墾は全部矢部という土木業者に請負わしてあるので、早田はいわば矢部の手で入れた監督に当・・・ 有島武郎 「親子」
・・・とある書窓の奥にはまた、あわれ今後の半生をかけて、一大哲理の研究に身を投じ尽さんものと、世故の煩を将って塵塚のただ中へ投げ捨てたる人あり。その人は誰なるらん。荻の上風、桐は枝ばかりになりぬ。明日は誰が身の。・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・丈夫づくりの薄禿の男ではあるが、その余念のない顔付はおだやかな波を額に湛えて、今は充分世故に長けた身のもはや何事にも軽々しくは動かされぬというようなありさまを見せている。 細君は焜炉を煽いだり、庖丁の音をさせたり、忙がしげに台所をゴトツ・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・と背後から大きな声で、なかなか調子が好い。世故に慣れているというまででなくても善良の老人は人に好い感じを持たせる、こういわれて悪い気はしない。駄馬にも篠の鞭、という格で、少しは心に勇みを添えられる。勿論未熟者という意味のボク釣師と自ら言・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・しかしだんだん種々の世故に遭遇するとともに、翻って考えると、その同情も、あらゆる意味で自分に近いものだけ濃厚になるのがたしかな事実である。して見るとこれもあまり大きなことは言えなくなる。同情する自分と同情される他者との矛盾が、死ぬか生きるか・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・本質的には世故にたけた、十分妥協性をもったものなのだが、それを語る語りかたの独特に意識ある態度のために風格が発生し、その確信をもって押してゆく雰囲気の魅惑に大作家らしい趣、生活力が具わっているのではないのだろうかと考えたのであった。そして、・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
出典:青空文庫