・・・分の不幸なるコスモポリチズムは、自分をしてそのヴェランダの外なる植込の間から、水蒸気の多い暖な冬の夜などは、夜の水と夜の月島と夜の船の影とが殊更美しく見えるメトロポオル・ホテルの食堂をも忘れさせない。世界の如何なる片隅をも我家のように楽しく・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・「蚊の世界も楽じゃなかろ」と女は人間を蚊に比較する。元へ戻りかけた話しも蚊遣火と共に吹き散らされてしもうた。話しかけた男は別に語りつづけようともせぬ。世の中はすべてこれだと疾うから知っている。「御夢の物語りは」とややありて女が聞く。男は・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・それは日本語によってのみ表現し得る美であり、大きくいえば日本人の人生観、世界観の特色を示しているともいえる。日本人の物の見方考え方の特色は、現実の中に無限を掴むにあるのである。しかし我々は単に俳句の如きものの美を誇とするに安んずることなく、・・・ 西田幾多郎 「国語の自在性」
ニイチェの世界の中には、近代インテリのあらゆる苦悩が包括されてゐる。だれでも、自分の悩みをニイチェの中に見出さない者はなく、ニイチェの中に、自己の一部を見出さないものはない。ニイチェこそは、実に近代の苦悩を一人で背負つた受・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ 人々は、眼を上げて、世界の出来事を見ると、地獄と極楽との絵を重ねて見るような、混沌さを覚えた。が、眼を、自分の生活に向けると、何しろ暑くて、生活が苦しくて、やり切れなかった。 その、四十年目の暑さに、地球がうだって、鮒共が総て目を・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・おれの宝物を見せるのだ。世界に類の無い宝物だ。」 一本腕は爺いさんの手を振り放して一歩退いた。「途方もねえ。気違じゃねえかしら。」 爺いさんはそれには構わずに、靴をぬぎはじめた。右の足には黄革の半靴を穿いている。左の足には磨り切れた・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・人間世界に男女同数とあれば、其成長して他人の家に行く者の数も正しく同数と見て可なり。或は男子は分家して一戸の主人となることあるゆえ女子に異なりと言わんかなれども、女子ばかり多く生れたる家にては、其内の一人を家に置き之に壻養子して本家を相続せ・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・そうすると狭い壁と壁との間に迷や涙で包まれた陰気な世界が出来て、人の心はこの中に擒にせられてしまうのだ。あるいは幾人か集って遠い処に行っている一人を思ったり、あるいは誰か一人に憂き事があるというと、皆が寄って慰めるのだ。しかし己は慰めという・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・人間世界の善悪が、善悪の外に立つ神の世界の恋に影響のしようがない。しかし火つけが悪い事と感じた瞬間には、本心に咎める所があって、あんな事をせなんだら善かったと思わずには居られまいと思うがどうであろうか。なかなか以てそんな事は思わぬ。それなら・・・ 正岡子規 「恋」
・・・ぼくのように働いている仲間よ、仲間よ、ぼくたちはこんな卑怯さを世界から無くしてしまおうでないか。一九二五、四月一日 火曜日 晴今日から新らしい一学期だ。けれども学校へ行っても何だか張合いがなかった。一年生はまだはいら・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
出典:青空文庫