・・・ただその沈黙が擾されるのは、寺の鳩が軒へ帰るらしい、中空の羽音よりほかはなかった。薔薇の匂、砂の湿り、――一切は翼のある天使たちが、「人の女子の美しきを見て、」妻を求めに降って来た、古代の日の暮のように平和だった。「やはり十字架の御威光・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・…… 保吉はその晩父と一しょに蝋を引いた布の上へ、もう一度ヴェネチアの風景を映した。中空の三日月、両側の家々、家々の窓の薔薇の花を映した一すじの水路の水の光り、――それは皆前に見た通りである。が、あの愛くるしい少女だけはどうしたのか今度・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・が、離れたと思うと落ちもせずに、不思議にも昼間の中空へ、まるで操り人形のように、ちゃんと立止ったではありませんか?「どうも難有うございます。おかげ様で私も一人前の仙人になれました。」 権助は叮嚀に御時宜をすると、静かに青空を踏みなが・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・ そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと見えて、中空に垂れた北斗の星が、茶碗程の大きさに光っていました。元より人跡の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返って、やっと耳にはいるものは、後の絶壁に生えている・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・「すると恵印がそこへ来てから、やがて半日もすぎた時分、まるで線香の煙のような一すじの雲が中空にたなびいたと思いますと、見る間にそれが大きくなって、今までのどかに晴れていた空が、俄にうす暗く変りました。その途端に一陣の風がさっと、猿沢の池・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・桜山の背後に、薄黒い雲は流れたが、玄武寺の峰は浅葱色に晴れ渡って、石を伐り出した岩の膚が、中空に蒼白く、底に光を帯びて、月を宿していそうに見えた。 その麓まで見通しの、小橋の彼方は、一面の蘆で、出揃って早や乱れかかった穂が、霧のように群・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・城趾のあたり中空で鳶が鳴く、と丁ど今が春の鰯を焼く匂がする。 飯を食べに行っても可、ちょいと珈琲に菓子でも可、何処か茶店で茶を飲むでも可、別にそれにも及ばぬ。が、袷に羽織で身は軽し、駒下駄は新しし、為替は取ったし、ままよ、若干金か貸して・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 雪がそのままの待女郎になって、手を取って導くようで、まんじ巴の中空を渡る橋は、さながらに玉の桟橋かと思われました。 人間は増長します。――積雪のために汽車が留って難儀をすると言えば――旅籠は取らないで、すぐにお米さんの許へ、そうだ・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・佐々木氏の祖父の弟、白望に茸を採りに行きて宿りし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を横ぎりて女の走り行くを見たり。中空を走る様に思われたり。待てちゃアと二声ばかり呼ばりたるを聞けりとぞ。 修羅の巷を行くものの、魔界の姿見るが・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・ 腹が空くと、電信の針がねに一座ずらりと出て、ぽちぽちぽちと中空高く順に並ぶ。中でも音頭取が、電柱の頂辺に一羽留って、チイと鳴く。これを合図に、一斉にチイと鳴出す。――塀と枇杷の樹の間に当って。で御飯をくれろと、催促をするのである。・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
出典:青空文庫