・・・「私の主人の御嬢さんが、去年の春行方知れずになった。それを一つ見て貰いたいんだが、――」 日本人は一句一句、力を入れて言うのです。「私の主人は香港の日本領事だ。御嬢さんの名は妙子さんとおっしゃる。私は遠藤という書生だが――どうだ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・三、四軒の農場の主人たちは決勝点の所に一段高く桟敷をしつらえてそこから見物した。松川場主の側には子供に付添って笠井の娘が坐っていた。その娘は二、三年前から函館に出て松川の家に奉公していたのだ。父に似て細面の彼女は函館の生活に磨きをかけられて・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ この犬は年来主人がなくて饑渇に馴れて居るので、今食物を貰うようになっても余り多くは喰べない。しかしその少しの食物が犬の様子を大相に変えた。今までは処々に捩れて垂れて居て、泥などで汚れて居た毛が綺麗になって、玻璃のように光って来た。この・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ ――旧藩の頃にな、あの組屋敷に、忠義がった侍が居てな、御主人の難病は、巳巳巳巳、巳の年月の揃った若い女の生肝で治ると言って、――よくある事さ。いずれ、主人の方から、内証で入費は出たろうが、金子にあかして、その頃の事だから、人買の手から・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・というのは、主人らしい人の声である。飯がすむ。娘はさがる。 鵜島は、湖水の沖のちょうどまんなかごろにある離れ小島との話で、なんだかひじょうに遠いところででもあるように思われる。いまからでかけてきょうじゅうに帰ってこられるかしらなどと・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・ 隣りの家族と言っては、主人夫婦に子供が二人、それに主人の姉と芸者とが加わっていた。主人夫婦はごくお人よしで家業大事とばかり、家の掃除と料理とのために、朝から晩まで一生懸命に働いていた。主人の姉――名はお貞――というのが、昔からのえら物・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 椿岳の兄が伊藤の養子婿となったはどういう縁故であったか知らないが、伊藤の屋号をやはり伊勢屋といったので推すと、あるいは主家の伊勢長の一族であって、主人の肝煎で養子に行ったのかも知れない。 伊藤というはその頃京橋十人衆といわれた幕府・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 事、キリスト教と学生とにかんすること多し、しかれどもまた多少一般の人生問題を論究せざるにあらず、これけだし余の親友京都便利堂主人がしいてこれを発刊せしゆえなるべし、読者の寛容を待つ。 明治三十年六月二十日東京青山において・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・そして店の主人と一しょに、裏の陰気な中庭へ出た。その時女は、背後から拳銃を持って付いて来る主人と同じように、笑談らしく笑っているように努力した。 中庭の側には活版所がある。それで中庭に籠っている空気は鉛のがする。この辺の家の窓は、五味で・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・そのりんご畑の持ち主を、私は、まんざら知らないことはありません、その主人に、私は、あなたを紹介しましょう。そして、私も、あなたといっしょに働いてもいいと思います。これから、二人は、そこへいって働こうじゃありませんか。」といいました。 若・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
出典:青空文庫