・・・しかし、今日の生活は遑しく、変化が激しく、混んだ電車一つに乗るにしても、実際には昔風の躾とちがった事情がおこって来ています。しとやかに、男の人のうしろについて、つつましく乗物にのるのが、昔の若い女性の躾でした。 毎朝、毎夕、あの恐しい省・・・ 宮本百合子 「新しい躾」
・・・場末の常で、朝出て晩に帰れば、丁度満員の車にばかり乗るようになるのである。二人は赤い柱の下に、傘を並べて立っていて、車を二台も遣り過して、やっとの事で乗った。 二人共弔皮にぶら下がった。小川はまだしゃべり足りないらしい。「君。僕の芸・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・その群衆の中に混って、乗るでもない、降りもしない一人の背高い、蒼ざめた帝大の角帽姿の青年が梶の眼にとまった。憂愁を湛えた清らかな眼差は、細く耀きを帯びて空中を見ていたが、栖方を見ると、つと美しい視線をさけて外方を向いたまま動かなかった。・・・ 横光利一 「微笑」
・・・ふと気づいて時計を見ると、自分が乗ることにきめていた新橋発の汽車の時間がだいぶ迫っている。で、いよいよ別れることにして立ち上がろうとした。その時またちょっとした話の行きがかりでなお十分ほど尻を落ち付けて話し込むような事になった。それでも玄関・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫