・・・子供の時に乳母に抱かれて、月蝕を見た気味の悪さも、あの時の心もちに比べれば、どのくらいましだかわからない。私の持っていたさまざまな夢は、一度にどこかへ消えてしまう。後にはただ、雨のふる明け方のような寂しさが、じっと私の身のまわりを取り囲んで・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・行歩健かに先立って来たのが、あるき悩んだ久我どのの姫君――北の方を、乳母の十郎権の頭が扶け参らせ、後れて来るのを、判官がこの石に憩って待合わせたというのである。目覚しい石である。夏草の茂った中に、高さはただ草を抽いて二三尺ばかりだけれども、・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 肖も着かぬが、乳母ではない、継しいなかと見たが、どうも母親に相違あるまい。 白襟に消えもしそうに、深くさし入れた頤で幽に頷いたのが見えて、手を膝にしたまま、肩が撓って、緞子の帯を胸高にすらりと立ったが、思うに違わず、品の可い、ちと・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・……次にまた浴衣に広袖をかさねて持って出た婦は、と見ると、赭ら顔で、太々とした乳母どんで、大縞のねんね子半纏で四つぐらいな男の児を負ったのが、どしりと絨毯に坊主枕ほどの膝をつくと、半纏の肩から小児の顔を客の方へ揉出して、それ、小父さんにをな・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
あかい雲、あかい雲、西の空の紅い雲。おらが乳母のおまんは、まだ年若いに、嫁入りの晩に、海の中に落ちて、あかい雲となった。おまん、おまん、まだ年若いに、あかい紅つけて、あかい帯し・・・ 小川未明 「あかい雲」
私がまだ六つか七つの時分でした。 或日、近所の天神さまにお祭があるので、私は乳母をせびって、一緒にそこへ連れて行ってもらいました。 天神様の境内は大層な人出でした。飴屋が出ています。つぼ焼屋が出ています。切傷の直ぐ・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・すぐ乳母を雇い入れたところ、おりから乳母はかぜけがあり、それがうつったのか赤児は生れて十日目に死んだ。父親は傷心のあまりそれから半年たたぬうちになくなった。 泣けもせずキョトンとしているのを引き取ってくれた彦根の伯父が、お前のように耳の・・・ 織田作之助 「螢」
・・・ かるが故にわれは今なお牧場、森林、山岳を愛す、緑地の上、窮天の間、耳目の触るる所の者を愛す、これらはみなわが最純なる思想の錨、わが心わが霊及びわが徳性の乳母、導者、衛士たり。 ああわが最愛の友よ(妹ドラ嬢を指、汝今われと共にこの清・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・哺乳は乳母任せ、身のまわりの世話は女中まかせ、学資は夫まかせで、自分は精神上の薫陶だけしようとしたって、効果の上るはずはない。 しかしただ教育的で厳しいだけで、ちっとも子どもを甘やかすというところのない母親は美しいものではない。そこには・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・自分は小さい時の乳母にでも会ったような心持がする。しばらくいろいろの話をする。 やがて双た親は掘りはじめる。枯れ萎れた茎の根へ、ぐいと一と鍬入れて引き起すと、その中にちらりと猿の臀のような色が覗く。茎を掴んで引き抜くと、下に芋が赤く重な・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫