・・・自慢にはならぬが、話が上手で、というよりお喋りで、自分でもいや気がさすくらいだが、浅墓な女にはそれがちょっと魅力だったらしい。事実また、私の毒にも薬にもならぬ身の上ばなしに釣りこまれて夜を更かしたのが、離れられぬ縁となった女もないではなかっ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・恐ろしい事実なんだよ。最も明瞭にして恐ろしい事実なんだよ。それが君に解らないというのは僕にはどうも不思議でならん」 Kは斯う云って、口を噤んで了う。彼もこれ以上Kに追求されては、ほんとうは泣き出すほかないと云ったような顔附になる。彼には・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・夢の事実で現実の人間を云々するのは。そいじゃね。君の夢を一つ出してやる」「開き直ったね」「だいぶん前の話だよ。Oがいたし、Cも入ってるんだ。それに君と僕と。組んでトランプをやっていたんだから、四人だった。どこでやっているのかと言うと・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・これが冷かなる事実です。そして僕の運命です。 若し此運命から僕を救い得る人があるなら、僕は謹しんで教を奉じます。其人は僕の救主です。」 七 自分は一言を交えないで以上の物語を聞いた。聞き終って暫くは一言も発し得・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・ 倫理学の根本問題と倫理学史とを学ぶときわれわれは人間存在というものの精神的、理性的構造に神秘の感を抱くとともに、その社会的共同態の生活事実の人間と起源を同じくする制約性を承認せずにはいられない。それとともに人間生活の本能的刺激、生活資・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・それは事実である。彼等は二十年、或は三十年の経験によって、それが真実であることを知りすぎているのである。 しかし、彼等は、どうして貧乏をするか、その原因も知らない。彼等は、貧乏がいやでたまらない。貧乏ぐらい、くそ嫌いなものはない。が、そ・・・ 黒島伝治 「選挙漫談」
・・・語体の文章は其組織や其色彩に於いて美妙君のの一派とは大分異っていた為、一部の人々をして言語体の文章と云うものについて、内心に或省察をいだかしめ、若くは感情の上に或動揺を起さしめた点の有った事は、小さな事実には過ぎなかったにせよ、事実であった・・・ 幸田露伴 「言語体の文章と浮雲」
・・・ いな、人間の死は、科学の理論を待つまでもなく、実に平凡なる事実、時々刻々の眼前の事実、なんびともあらそうべからざる事実ではないか。死のきたるのは、一個の例外もゆるさない。死に面しては、貴賎・貧富も、善悪・邪正も、知恵・賢不肖も、平等一・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 救援会の人は手紙を前にしばらくじッとしていたが、そこに争われない事実を見たと思った。――一九三一・八・一七―― 小林多喜二 「争われない事実」
・・・明治年代の文学を回顧すると民友社というものは、大きな貢献をした事は事実であるし、蘆花、独歩、湖処子の諸君の仕事も、民友社という事からは離しては考えられない。遠くから望むと一群の林のような観をなしていたが、民友社にも種々異った意見を持った人が・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
出典:青空文庫