・・・しかるに手紙にては互に相慰め、慰められていながら、面と相向うては何の語も出ず、ただ軽く弔辞を交換したまでであった。逗留七日、積る話はそれからそれと尽きなかったが、遂に一言も亡児の事に及ばなかった。ただ余の出立の朝、君は篋底を探りて一束の草稿・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・御二人手を御取合で互に涙含んでらッした御様子てッたら、私も戦地へお行でなさる兄さんが、急に欲しくなった位でした。『美子さん、勉強なさいよ。勉強して女の偉い人になって下さい。若子を何時までも友達にして下さってね、私の母の処へも時々遊びに行・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・ぴったり食っ附いて寝ると、お互に暖かでいい。ミリオネエルはよく出来たな。」 爺いさんは一本腕の臂を攫んだ。「まあ、黙って聞け。おれがおぬしに見せてやる。おれの宝物を見せるのだ。世界に類の無い宝物だ。」 一本腕は爺いさんの手を振り放し・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・栄誉利害を異にすれば、また従て同情相憐むの念も互に厚薄なきを得ず。譬えば、上等の士族が偶然会話の語次にも、以下の者共には言われぬことなれどもこの事は云々、ということあり。下等士族もまた給人分の輩は知らぬことなれども彼の一条は云々、とて、互に・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・斯うやって御互に坐っているのも亦人生に漬かっているのだから、人生に対する感を持たれぬという筈もない。だから追想とか空想とかで作の出来る人ならば兎も角、私にゃどうしても書きながら実感が起らぬから真劒になれない。古い説かも知らんが私の知ってる限・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・本当にお互に物馴れない、窮屈らしい御交際をいたしました事ね。あの時邪魔の無い所で、久しく御一しょにいますうちに、あなたの人にすぐれていらっしゃること、珍らしい才子でいらっしゃること、何かなさるのに思い切って大胆に手をお下しになることなんぞが・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・四つの額は互に向きおうて居る。 段々発熱の気味を覚えるから、蒲団の上に横たわりながら『日本』募集の桜の歌について論じた。歌界の前途には光明が輝いで居る、と我も人もいう。 本をひろげて冕の図や日蔭のかずらの編んである図などを見た。それ・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・重力は互に打ち消され冷たいまるめろの匂いが浮動するばかりだ。だからあの天衣の紐も波立たずまた鉛直に垂 けれどもそのとき空は天河石からあやしい葡萄瑪瑙の板に変りその天人の翔ける姿をもう私は見ませんでした。(やっぱりツェラの高原だ。ほん・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・文句はあれで結構、身ぶりもあれで結構、おふみの舞台面もあれでよいとして、もしその間におふみと芳太郎とが万歳をやりながら互に互の眼を見合わせるその眼、一刹那の情感ある真面目ささえもっと内容的に雄弁につかまれ活かされたら、どんなに監督溝口が全篇・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・然るところその伽羅に本木と末木との二つありて、はるばる仙台より差下され候伊達権中納言殿の役人ぜひとも本木の方を取らんとし、某も同じ本木に望を掛け互にせり合い、次第に値段をつけ上げ候。 その時横田申候は、たとい主命なりとも、香木は無用の翫・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
出典:青空文庫