・・・さすがに心着いて、鮨を驕りましょうといって戸外へ出たのが、葦の湯の騒ぎをつい見棄てかねて取合って、時をうつしていた間に、過世の深い縁であろう、浅緑の薫のなお失せやらぬ橘之助の浴衣を身につけて、跣足で、亡き人のあとを追った。 菊枝は屏風の・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 妻もただ泣いたばかりで飽き足らなくなったか、部屋に帰って亡き人の姉々らと過ぎし記憶をたどって、悔しき当時の顛末を語り合ってる。自分も思わず出てきてその仲間になった。 自分が今井とともに家を出てから間もないことであった。妻は気分が悪・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・ 妹を引取って後も、郷里との交渉やら亡き人の後始末やらに忙殺されて、過ぎた苦痛を味わう事は勿論、妹や姪の行末などの事もゆるゆる考える程の暇はなかった。妻と下女とで静かに暮していた処へ急に二人も増したのみならず、姪はいたずら盛りの年頃では・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・例えば死者を祭るに供物を捧ぐるは生者の情なれども、其情如何に濃なるも亡き人をして飲食せしむることは叶わず。左れば生者が死者に対して情を尽すは言うまでもなく、懐旧の恨は天長地久も啻ならず、此恨綿々絶ゆる期なしと雖も、冥土人間既に処を殊にすれば・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・ぜんまひの小毬をかゞる我指を 見れば鹿の子を髪にのせたや夜々ごとに来し豆売りは来ずなりぬ 妻めとりぬと人の云ひたり意志悪な小姑の如シク/\と いたむ虫歯に我はなやめり亡き人のたまを迎へて鳴くと云ふ 犬・・・ 宮本百合子 「短歌習作」
・・・山井大納言は六月十一日に亡き人となった。斯那ことは又となかろう。大臣公卿が七八人、二三月のうちにかき払われて仕舞うことは稀有な出来事と謂うべきである。 これが道長の運命に大きな変化を与えた。 前述の先輩達が順当に長寿したら、道長とて・・・ 宮本百合子 「余録(一九二四年より)」
・・・えいの事をわたくしの問うたこの翁媼は今や亡き人である。先日わたくしは第一高等学校の北裏を歩いて、ふと樒屋の店の鎖されているのに気が付いたので、近隣の古本屋をおとずれて、翁媼の消息を聞いた。翁は四月頃に先ず死し、まだ百箇日の過ぎぬ間に、媼も踵・・・ 森鴎外 「細木香以」
出典:青空文庫