・・・何でも事の起りは、あの界隈の米屋の亭主が、風呂屋で、隣同志の紺屋の職人と喧嘩をしたのですな。どうせ起りは、湯がはねかったとか何とか云う、つまらない事からなのでしょう。そうして、その揚句に米屋の亭主の方が、紺屋の職人に桶で散々撲られたのだそう・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・ 常子も恐らくはこの例に洩れず、馬の脚などになった男を御亭主に持ってはいないであろう。――半三郎はこう考えるたびに、どうしても彼の脚だけは隠さなければならぬと決心した。和服を廃したのもそのためである。長靴をはいたのもそのためである。浴室の窓・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ 納戸へ通口らしい、浅間な柱に、肌襦袢ばかりを着た、胡麻塩頭の亭主が、売溜の銭箱の蓋を圧えざまに、仰向けに凭れて、あんぐりと口を開けた。 瓜畑を見透しの縁――そこが座敷――に足を投出して、腹這いになった男が一人、黄色な団扇で、耳も頭・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・円髷の年増と、その亭主らしい、長面の夏帽子。自動車の運転手が、こつこつと一所に来たでしゅ。が、その年増を――おばさん、と呼ぶでございましゅ、二十四五の、ふっくりした別嬪の娘――ちくと、そのおばさん、が、おばしアん、と云うか、と聞こえる……清・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・の十八日の夜の道を宵なので月もなく推量してたどって行くと脇道から人の足音がかるくたちどまったかと思うと大男が槍のさやをはらってとびかかるのをびっくりして逃げる時にふりかえって見ると最前情をかけてくれた亭主である。出家は言葉かけて「私は出家の・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・と、自分は亭主に角のない皮肉をあびせかけ、銚子を僕に向けて、「まア、一杯どうどす?――うちの人は、いつも、あないなことばかり云うとります。どうぞ、しかってやってお呉れやす。」「まア、こういう人間は云いたいだけ云わして置きゃア済むんで・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・はじめて家を持った時、などは、井筒屋のお貞(その時は、まだお貞の亭主の思いやりで、台どころ道具などを初め、所帯を持つに必要な物はほとんどすべて揃えてもらい、飯の炊き方まで手を取らないまでにして世話してもらったのであるが、月日の経つに従い、こ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・これが縁となって、正直と才気と綿密を見込まれて一層親しくしたが、或時、国の親類筋に亭主に死なれて困ってる家があるが入夫となって面倒を見てもらえまいかと頼まれた。喜兵衛は納得して幸手へ行き、若後家の入夫となって先夫の子を守育て、傾き掛った身代・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・そこで屋台店の亭主から、この町で最も忙しい商店の名を聞いて、それへ行って小僧でも下男でもいいから使ってくれと頼んだ。先方はむろん断った。いろいろ窮状を談して執念く頼んでみたが、旅の者ではあり、なおさら身元の引受人がなくてはときっぱり断られて・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・「私の亭主の苗字さ」と言って、女は無理に笑顔を作る。「え」と男は思わず目を見張って顔を見つめたが、苦笑いをして、「笑談だろう?」「あら、本当だよ。去年の秋嫁いて……金さんも知っておいでだろう、以前やっぱり佃にいた魚屋の吉新、吉田・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫