・・・俺は今朝九時前後に人力車に乗って会社へ行った。すると車夫は十二銭の賃銭をどうしても二十銭よこせと言う。おまけに俺をつかまえたなり、会社の門内へはいらせまいとする。俺は大いに腹が立ったから、いきなり車夫を蹴飛ばしてやった。車夫の空中へ飛び上っ・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・が、しばらくそうしていても、この問屋ばかり並んだ横町には、人力車一台曲らなかった。たまに自動車が来たと思えば、それは空車の札を出した、泥にまみれているタクシイだった。 その内に彼の店の方から、まだ十四五歳の店員が一人、自転車に乗って走っ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・私が再び頷きながら、この築地居留地の図は、独り銅版画として興味があるばかりでなく、牡丹に唐獅子の絵を描いた相乗の人力車や、硝子取りの芸者の写真が開化を誇り合った時代を思い出させるので、一層懐しみがあると云った。子爵はやはり微笑を浮べながら、・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・僕は或風のない深夜、僕の養母と人力車に乗り、本所から芝まで駈けつけて行った。僕はまだ今日でも襟巻と云うものを用いたことはない。が、特にこの夜だけは南画の山水か何かを描いた、薄い絹の手巾をまきつけていたことを覚えている。それからその手巾には「・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・ かどの たばこやの まえに ちょうちんの 火が みえて、人力車が みちを きいて いる ようすです。そのうち こちらへ かけだして くると、リンリン リンと、しんぼうに はめた かねの わが なりました。 かさを かぶった おじい・・・ 小川未明 「こがらしの ふく ばん」
・・・ただ馬車や、人力車が交通するにすぎなかった。だから、歩行するのに、さまで神経を労しなかった。一里や二里位の路を往復することは、なんでもなかった。しかし、これがために、今日、近距離を行くにさへたる、境遇について、不平を言い、抗議することを知ら・・・ 小川未明 「児童の解放擁護」
・・・ 断り無しに持って来た荷物を売りはらった金で、人力車を一台購い、長袖の法被に長股引、黒い饅頭笠といういでたちで、南地溝の側の俥夫の溜り場へのこのこ現われると、そこは朦朧俥夫の巣で、たちまち丹造の眼はひかり、彼等の気風に染まるのに何の造作・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ 間もなく、その料亭へよばれた女をのせて、人力車が三台横丁へはいった。女たちは塗りの台に花模様の向革をつけた高下駄をはいて、島田の髪が凍てそうに見えた。蛇の目の傘が膝の横に立っていた。 二時間経って、客とその傘で出て来た。同勢五人、・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・ 然るに八時は先刻打っても人々は未だなかなか散じそうな様子も見えない。人力車が六台玄関の横に並んでいたが、車夫どもは皆な勝手の方で例の一六勝負最中らしい。 すると一人の男、外套の襟を立てて中折帽を面深に被ったのが、真暗な中からひょっ・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・深谷に着きて汽車に打乗り、鴻巣にいたりて汽車を棄て、人力車を走らせて西吉見の百穴に人間の古をしのび、また引返して汽車に乗り、日なお高きに東京へ着き、我家のほとりに帰りつけば、秩父より流るる隅田川の水笑ましげに我が影を涵せり。・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
出典:青空文庫