・・・帰途、吉祥寺駅から、どしゃ降りの中を人力車に乗って帰った。車夫は、よぼよぼの老爺である。老爺は、びしょ濡れになって、よたよた走り、ううむ、ううむと苦しげに呻くのである。私は、ただ叱った。「なんだ、苦しくもないのに大袈裟に呻いて、根性が浅・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・芸者が黒い人力車に乗って私を追い越す。うすい幌の中でふりかえる。八月の末、よく観ると、いいのね、と皮膚のきたない芸者ふたりが私の噂をしていたと家人が銭湯で聞いて来て、と鏡台のまえに坐り、おしろいを、薄くつけながら言った。軒のひくい家の柱時計・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・ いわゆる日本街を人力車で行った。道路にのぞんだヴェランダに更紗の寝巻のようなものを着た色の黒い女の物すごい笑顔が見えた、と思う間に通り過ぎてしまう。 オテルドリューロプで昼食をくう。薬味のさまざまに多いライスカレーをくって氷で冷や・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・自分だけ早くから寝てもなかなか寝付かれないので、もう帰るかもう帰るかと心待ちにしていると自然と表通りを去来する人力車の音が気になる。凍結した霜夜の街を駆け行く人力車の車輪の音――またゴム輪のはまっていなかった車輪が凍てた夜の土と砂利を噛む音・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・九歳の時に人力車で三日かかって吉浜まで来たことを考え合わせてみると、現代のわれわれは昔の人に比べて五倍も十倍も永生きをするのと同等だという勘定になるかもしれない。 熱海ホテルの海に面した芝生は美しい。去年見た新解釈「金色夜叉」の芝居で柳・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・五六人の女婢手を束ねて、ぼんやり客俟の誰彼時、たちまちガラ/\ツとひきこみしは、たしかに二人乗の人力車、根津の廓からの流丸ならずば権君御持参の高帽子、と女中はてん/″\に浮立つゝ、貯蓄のイラツシヤイを惜気もなく異韻一斉さらけだして、急ぎいで・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ 夏から秋へかけての日盛に、千葉県道に面した商い舗では砂ほこりを防ぐために、長い柄杓で溝の水を汲んで撒いていることがあるが、これもまたわたくしには、溝の多かった下谷浅草の町や横町を、風の吹く日、人力車に乗って通り過ぎたころのむかしを思い・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 自分はいつも人力車と牛鍋とを、明治時代が西洋から輸入して作ったものの中で一番成功したものと信じている。敢て時間の経過が今日の吾人をして人力車と牛鍋とに反感を抱かしめないのでは決してない。牛鍋の妙味は「鍋」という従来の古い形式の中に「牛・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・そこで人力車もできなければならない訳になります。その上に贅沢を云えば自転車にするでしょう。なおわがままを云い募ればこれが電車にも変化し自動車または飛行器にも化けなければならなくなるのは自然の数であります。これに反して電車や電話の設備があるに・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・自転車と人力車はまるで見えなくなった。鋏の音がちゃきちゃきする。 やがて、白い男は自分の横へ廻って、耳の所を刈り始めた。毛が前の方へ飛ばなくなったから、安心して眼を開けた。粟餅や、餅やあ、餅や、と云う声がすぐ、そこでする。小さい杵をわざ・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
出典:青空文庫