・・・ がらんとしたその電車が行ってしまうと、向い側のプラットホームに人影が一つ蠢いていた。今降りたばかりの客であろう。女らしかった。そわそわとそのあたりを見廻しながら、改札口を出て暫く佇んでいたが、やがてまた引きかえして新吉の傍へ寄って来た・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・いて教えたことや、その男の頑なに拒んでいる態度にもかかわらず、彼にも自分と同じような欲望があるにちがいないとなぜか固く信じたことや――そんなことを思い出しながら彼の眼は不知不識、もしやという期待で白い人影をその闇のなかに探しているのであった・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・宵のうちはその障子に人影が写り「デデンデン」という三味線の撥音と下手な嗚咽の歌が聞こえて来る。 その次は「角屋」の婆さんと言われている年寄っただるま茶屋の女が、古くからいたその「角屋」からとび出して一人で汁粉屋をはじめている家である。客・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・ただ二人が唄う節の巧みなる、その声は湿りて重き空気にさびしき波紋をえがき、絶えてまた起こり、起こりてまた絶えつ、周囲に人影見えず、二人はわれを見たれど意にとめざるごとく、一足歩みては唄い、かくて東屋の前に立ちぬ。姉妹共に色蒼ざめたれど楽しげ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
九段坂の最寄にけちなめし屋がある。春の末の夕暮れに一人の男が大儀そうに敷居をまたげた。すでに三人の客がある。まだランプをつけないので薄暗い土間に居並ぶ人影もおぼろである。 先客の三人も今来た一人も、みな土方か立ちんぼう・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・この辺の家の窓は、ごみで茶色に染まっていて、その奥には人影が見えぬのに、女の心では、どこの硝子の背後にも、物珍らしげに、好い気味だと云うような顔をして、覗いている人があるように感ぜられた。ふと気が付いて見れば、中庭の奥が、古木の立っている園・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・遊山の人影がちらとでも見えると、やすんで行きせえ、と大声で呼びかけるのだ。父親がそう言えと申しつけたからである。しかし、スワのそんな美しい声も滝の大きな音に消されて、たいていは、客を振りかえさすことさえ出来なかった。一日五十銭と売りあげるこ・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・これは毎夜の事でその日漁した松魚を割いて炙るのであるが、浜の闇を破って舞上がる焔の色は美しく、そのまわりに動く赤裸の人影を鮮やかに浮上がらせている。焔が靡く度にそれがゆらゆらと揺れて何となく凄い。孕の鼻の陰に泊っている帆前船の舷燈の青い光が・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・たとえばショーウィンドウの内の花を写すつもりでとった写真を見ると、とるつもりの夢にもなかったあらゆる街頭の人影の反映が写っているのである。盛り場である人がなんの気なしにとった写真に掏摸が椋鳥のふところへ手を入れたのがちゃんと写っていたという・・・ 寺田寅彦 「カメラをさげて」
・・・どこにも人影がみえなかった。対岸のどの家もしんとしていた。犬の声さえ聞こえなかった。もちろん涸れた川には流れの音のあるはずもなかった。「わたしはこの草の中から、月を見ているのが好きですよ」彼は彼自身のもっている唯一の詩的興趣を披瀝するよ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
出典:青空文庫