・・・彼女は化粧栄えのする顔立ちで、ホテルの食堂へはいっても人目を惹くだろうが、それにしては身につけているものがお粗末すぎる。パトロンは早々と部屋へ連れて上って、みすぼらしい着物を寝巻に着更えさせるだろう。彼女は化粧を直すため、鏡台の前で、ハンド・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・ 青い顔して、人目を避けて、引っこんでいる耕吉の生活は、村の人たちの眼には不思議なものとして映っていた。「やっぱしな、工藤の兄さんも学問をし損じて頭を悪くしたか……」こう判断しているらしかった。でそうした巌丈な赭黒い顔した村の人たちから・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・先達からちょくちょく盗んだ炭の高こそ多くないが確的に人目を忍んで他の物を取ったのは今度が最初であるから一念其処へゆくと今までにない不安を覚えて来る。この不安の内には恐怖も羞恥も籠っていた。 眼前にまざまざと今日の事が浮んで来る、見下した・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・青年は身を起こしてしばし林の中をたどりしが、直ちに路にはいでず、路に近けれど人目に隠るる流れの傍らにいでたり。こはかれが家の庭を流れてかの街を貫くものとは異なり、遠き大川より引きし水道の類ゆえ、幅は三尺に足らねど深ければ水層多く、林を貫く辺・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ もっと隅ッこの人目につかんところへ建てるとか、お屋敷からまる見えだし、景色を損じて仕様がない!」「チッ! くそッ!」 自分の住家の前に便所を建てていけないというに到っては、別荘も、別邸もあったもんじゃなかった。国立公園もヘチマもな・・・ 黒島伝治 「名勝地帯」
・・・他の二人も老人らしく似つこらしい打扮だが、一人の濃い褐色の土耳古帽子に黒い絹の総糸が長く垂れているのはちょっと人目を側立たせたし、また他の一人の鍔無しの平たい毛織帽子に、鼠甲斐絹のパッチで尻端折、薄いノメリの駒下駄穿きという姿も、妙な洒落か・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・葦簾で囲った休茶屋の横手には、人目をひくような新しい食堂らしい旗も出ている。それには、池に近い位置に因んで「池の茶屋」とした文字もあらわしてある。お力夫妻はそこにお三輪や新七を待ちうけていた。「御隠居さんがいらしった」 という声がお・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・わけてもその夜は、お店の手代と女中が藪入りでうろつきまわっているような身なりだったし、ずいぶん人目がはばかられた。売店で、かず枝はモダン日本の探偵小説特輯号を買い、嘉七は、ウイスキイの小瓶を買った。新潟行、十時半の汽車に乗りこんだ。 向・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・ つまらない事ではあるが、拘留された俘虜達が脱走を企てて地下に隧道を掘っている場面がある、あの掘り出した多量な土を人目にふれずに一体どこへ始末したか、全く奇蹟的で少なくも物質不滅を信ずる科学者には諒解出来ない。・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・殊に唖々子はこの夜この事を敢てするに至るまでの良心の苦痛と、途中人目を憚りつつ背負って来たその労力とが、合せて僅弐円にしかならないと聞いては、がっかりするのも無理はない。口に啣えた巻煙草のパイレートに火をつけることも忘れていたが、良久あって・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
出典:青空文庫