・・・地下に水が廻る時日が長い。人知れず働く犠牲の数が入る。犠牲、実に多くの犠牲を要する。日露の握手を来すために幾万の血が流れたか。彼らは犠牲である。しかしながら犠牲の種類も一ではない。自ら進んで自己を進歩の祭壇に提供する犠牲もある。――新式の吉・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・先生は現代生活の仮面をなるべく巧に被りおおせるためには、人知れずそれをぬぎ捨てべき楽屋を必要としたのである。昔より大隠のかくれる町中の裏通り、堀割に沿う日かげの妾宅は即ちこの目的のために作られた彼が心の安息所であったのだ。二・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・本の錐さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥り抜いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰欝な日を送ったのであります。・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・男も悄然として居る。人知れず力を入れて手を握った。直に艀舟に乗った。女は身動きもせず立って居た。こんな聯想が起ったので、「桟橋に別れを惜む夫婦かな」とやったが、月がなかった。今度は故郷の三津を想像して、波打ち際で、別を惜むことにしようと思う・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・あの記事をよんで、日本中には少くない同じ立場の若い娘たちが、人知れずどんな恐怖にうたれたであろう。昔から可哀そうな少女のお話の女主人公は継娘ときまっていて、ヨーロッパにも「シンデレラ」の物語がある。女の感情生活は社会のひろい風に吹かれていな・・・ 宮本百合子 「女の手帖」
・・・けれども子供達の将来を思い、いまはもう故郷でなくなった故郷の美しいラインの流れを思いおこした時、イエニーの頬を人知れず流れる涙があったことは思いやられる。 ブルッセルの家では出入りする友人の中にも革命的な時計工、靴工という種類の人々が登・・・ 宮本百合子 「カール・マルクスとその夫人」
・・・西条エリは、白眼のきわだった目のまわりに暗い暈のかかったような、素肌に袷を着たような姿を撮され、私はその写真からもこの若い女優が今度の事に関りあったことに対しまだきまらない世間の人気や批判を人知れず気にしているらしい窶れを感じ、哀れに思った・・・ 宮本百合子 「昨今の話題を」
・・・ ベルニィ夫人の生活は、その時既に新興ブルジョアと成上り貴族によって経済的に圧迫された貴族、人知れずやりくりに心を労し「小作人、家政のうんざりする細々したこと」に自ら煩わされなければならない、落魄に瀕した旧貴族階級の典型のようなものであ・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
・・・――この時からナポレオンの奇怪な哄笑は深夜の部屋の中で人知れず始められた。 彼の田虫の活動はナポレオンの全身を戦慄させた。その活動の最高頂は常に深夜に定っていた。彼の肉体が毛布の中で自身の温度のために膨張する。彼の田虫は分裂する。彼の爪・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫