・・・ 外はまだ人通りがなかった。二人はそれでも編笠に顔を包んで、兼ねて敵打の場所と定めた祥光院の門前へ向った。ところが宿を離れて一二町行くと、甚太夫は急に足を止めて、「待てよ。今朝の勘定は四文釣銭が足らなかった。おれはこれから引き返して、釣・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
目のあらい簾が、入口にぶらさげてあるので、往来の容子は仕事場にいても、よく見えた。清水へ通う往来は、さっきから、人通りが絶えない。金鼓をかけた法師が通る。壺装束をした女が通る。その後からは、めずらしく、黄牛に曳かせた網代車・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・今ごろはあの子供の頭が大きな平手でぴしゃぴしゃはたき飛ばされているだろうと思うと、彼は知らず識らず眼をつぶって歯を食いしばって苦い顔をした。人通りがあるかないかも気にとめなかった。噛み合うように固く胸高に腕ぐみをして、上体をのめるほど前にか・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・僧のいる酒屋の天水桶に飛び乗って、そこでまたきりきり舞いをして桶のむこうに落ちたと思うと、今度は斜むこうの三軒長屋の格子窓の中ほどの所を、風に吹きつけられたようにかすめて通って、それからまた往来の上を人通りがないのでいい気になって走ります。・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・合せ目も中透いて、板も朽ちたり、人通りにはほろほろと崩れて落ちる。形ばかりの竹を縄搦げにした欄干もついた、それも膝までは高くないのが、往き還り何時もぐらぐらと動く。橋杭ももう痩せて――潮入りの小川の、なだらかにのんびりと薄墨色して、瀬は愚か・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・日中もほとんど人通りはない。妙齢の娘でも見えようものなら、白昼といえども、それは崩れた土塀から影を顕わしたと、人を驚かすであろう。 その癖、妙な事は、いま頃の日の暮方は、その名所の山へ、絡繹として、花見、遊山に出掛けるのが、この前通りの・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・いついかなる者から闇打ちを喰らわされるやも知れない。人通りのない時、よしんば出来心にしろ、石でもほうり込まれ、怪我でもしたらつまらないと思い、起きあがって、窓の障子を填め、左右を少しあけておいて、再び枕の上に仰向けになった。 心が散乱し・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 空が、曇っていたせいもありますが、町の中は、日が暮れてからは、あまり人通りもありませんでした。天使は、こんなさびしい町の中で、幾日もじっとして、これから長い間、こうしているのかしらん。もし、そうなら退屈でたまらないと思いました。 ・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・ 少年は、おじいさんのげたの鼻緒をたてていますと、あごひげの白いおじいさんは、つえによりかかってあたりを見まわしていましたが、「あすは、お寺のお開帳で、どんなにかこの辺は人通りの多いことだろう。お天気であってくれればいいが。」といい・・・ 小川未明 「石をのせた車」
・・・ 私は暗い路ばたに悄り佇んで、独り涙含んでいたが、ふと人通りの途絶えた向うから車の轍が聞えて、提灯の火が見えた。こちらへ近いてくるのを見ると、年の寄った一人の車夫が空俥を挽いている。私は人懐しさにいきなり声を懸けた。 先方は驚いて立・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫