・・・日本橋一丁目で降りて、野良犬や拾い屋が芥箱をあさっているほかに人通りもなく、静まりかえった中にただ魚の生臭い臭気が漂うている黒門市場の中を通り、路地へはいるとプンプン良い香いがした。 山椒昆布を煮る香いで、思い切り上等の昆布を五分四角ぐ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・焼跡の寂しい道で、人通りは殆どなかったが、かえってもっけの幸いだった。 娘ははだしで歩きにくかったので、急いだつもりだが、阿倍野橋まで一時間も掛った。 阿倍野の闇市のバラックに、一、二軒おそくまで灯りをつけている店があった。 立・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ 午下りの暑い盛りなので、そこらには人通りは稀であった。二人はそこの電柱の下につくばって話した。 警官――横井と彼とは十年程前神田の受験準備の学校で知り合ったのであった。横井はその時分医学専門の入学準備をしていたのだが、その時分下宿・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ そこは入り込んだ町で、昼間でも人通りは少なく、魚の腹綿や鼠の死骸は幾日も位置を動かなかった。両側の家々はなにか荒廃していた。自然力の風化して行くあとが見えた。紅殻が古びてい、荒壁の塀は崩れ、人びとはそのなかで古手拭のように無気力な生活・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・有楽町で途中下車して銀座へ出、茶や砂糖、パン、牛酪などを買った。人通りが少い。ここでも三四人の店員が雪投げをしていた。堅そうで痛そうであった。自分は変に不愉快に思った。疲れ切ってもいた。一つには今日の失敗り方が余りひど過ぎたので、自分は反抗・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・浦人島人乗せて城下に往来すること、前に変わらず、港開けて車道でき人通り繁くなりて昔に比ぶればここも浮世の仲間入りせしを彼はうれしともはた悲しとも思わぬ様なりし。「かくてまた三年過ぎぬ。幸助十二歳の時、子供らと海に遊び、誤りて溺れしを、見・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・「宜いのよ、其処へ出ると未だ人通りが沢山あるから」とお富は笑って、「左様なら、源ちゃんお大事に、」と去きかける。「御壕の処まで送りましょうよ、」とお秀は関わず同伴に来る。二人の少女の影は、薄暗いぬけろじの中に消えた。 ぬけろ・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・小さい橋が二、三間おきにいくつもかけられている。人通りが多かった。明るい電燈で、降ってくる雪片が、ハッキリ一つ一つ見えた。風がなかったので、その一つ一つが、いかにものんきに、フラフラ音もさせずに降っていた。活動常設館の前に来たとき入口のボッ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・やがて次郎は何か思いついたように、やや中腰の姿勢をして、車のゆききや人通りの激しい外の町からこの私をおおい隠すようにした。 私たちはある町を通り過ぎようとした。祭礼かと見まごうばかりにぎやかに飾り立てたある書店の前の広告塔が目につく。私・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・こんな、人通りのすくないほの暗い橋のうえで、花を売ろうなどというのは、よくないことなのに、――なぜ? その不審には、簡単ではあるが頗るロマンチックな解答を与え得るのである。それは、彼女の親たちの日本橋に対する幻影に由来している。ニホンで・・・ 太宰治 「葉」
出典:青空文庫