・・・おれは明治の人間だ。明治の天子様は、たとえ若崎が今度失敗しても、畢竟は認めて下さることを疑わない」と、安心立命の一境地に立って心中に叫んだ。 ○ 天皇は学校に臨幸あらせられた。予定のごとく若崎の芸術をご覧あった。最後・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・自分にはわからぬが、しかし、今のわたくしは、人間の死生、ことに死刑については、ほぼ左のような考えをもっている。 二 万物はみなながれさる、とへラクレイトスもいった。諸行は無常、宇宙は変化の連続である。 その実・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・からではなしに、彼の金で女の「人間として」の人格を侮辱することを苦しく思うことはもっと彼自身にとってぴったりした、生えぬきの気持からだった。 友だちといっしょにこういう処にくることがあった。が、彼はしまいまで何もせずに帰る。そんな時彼は・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・「大都市は墓地です。人間はそこには生活していないのです。」 これは日ごろ私の胸を往ったり来たりする、あるすぐれた芸術家の言葉だ。あの子供らのよく遊びに行った島津山の上から、芝麻布方面に連なり続く人家の屋根を望んだ時のかつての自分の心・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ さらに一つは、義務とか理想とかのために、人間が機械となる場合がある。ただ何とはなしに、しなくてはならないように思ってする、ただ一念そのことが成し遂げたくてする。こんな形で普通道徳に貢献する場合がある。私も正しくその通りのことをしている・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・この不思議な人間を委しく見てやりたいというような風である。「そうさね。不景気だからね。まあ大変に窶れているじゃあないか。そんなになったからには息張っていては行けないよ。息張るの高慢ぶるのという事は、わたしなんぞはとっくに忘れてしまったのだ。・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・と、人間の通りの言葉でこう言いました。ウイリイはびっくりして、「おや、お前は口がきけるのか。それは何より幸だ。」と喜びました。そればかりか、耳にさえさわれば食べるものや飲むものがすぐにどこからか出て来るというのですから、これほど便利なこ・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・今の月が上弦だろうが下弦だろうが、今夜がクリスマスだろうが、新年だろうが、外の人間が為合せだろうが、不為合せだろうが構わないという風でいるのね。人を可哀いとも思わなければ、憎いとも思わないでいるのね。鼠の穴の前に張番をしている鸛のように動か・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・年も臥せったなりのこのおばあさんは、二人のむすこが耕すささやかな畑地のほかに、窓越しに見るものはありませなんだが、おばあさんの窓のガラスは、にじのようなさまざまな色のをはめてあったから、そこからのぞく人間も世間も、普通のものとは異なっていま・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・「ゆうべ私は、つくづく考えてみたのだけれど、」なに、たったいま、ふと思いついただけのことなのである。「人間のうちで、一ばんロマンチックな種属は老人である、ということがわかったの。老婆は、だめ。おじいさんで無くちゃ、だめ。おじいさんが、こう、・・・ 太宰治 「愛と美について」
出典:青空文庫