・・・老博士も、やはり世に容れられず、奇人よ、変人よ、と近所のひとたちに言われて、ときどきは、流石に侘びしく、今夜もひとり、ステッキ持って新宿へ散歩に出ました。夏のころの、これは、お話でございます。新宿は、たいへんな人出でございます。博士は、よれ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・とにかく今夜一晩だけでもあの包みなしに安眠したいと思ったのである。明朝になったなら、またどうにかしようというのであった。しかしそれは画餅になった。おれはとうとう包みと一しょに寝た。十二キロメエトル歩いたあとだからおれは随分くたびれていて、す・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・いつもならば夕凪の蒸暑く重苦しい時刻であるが、今夜は妙に湿っぽい冷たい風が、一しきり二しきり堤下の桑畑から渦巻いては、暗い床の間の掛物をあおる。草も木も軒の風鈴も目に見えぬ魂が入って動くように思われる。 浜辺に焚火をしているのが見える。・・・ 寺田寅彦 「嵐」
四五日前に、善く人にじゃれつく可愛い犬ころを一匹くれて行った田町の吉兵衛と云う爺さんが、今夜もその犬の懐き具合を見に来たらしい。疳癪の強そうな縁の爛れ気味な赤い目をぱちぱち屡瞬きながら、獣の皮のように硬張った手で時々目脂を拭いて、茶の・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ よばれた二人の文選工が、まだよごれ手のまま、ボンヤリはいってくると、「お前たち、もう今夜はいいから、ポスターをてつだいなさい」 と、あごでしゃくった。武ちゃんも、安雄も三吉とは知っている組合員であったが、主人の方にだけ気をとら・・・ 徳永直 「白い道」
・・・しかしたまたまこの稿を草するに当って、思い出したのは或夜父が晩餐の後、その書斎で雑談しておられた時、今夜は十三夜だと言って、即興の詩一篇を示された事である。その詩は父の遺稿に、蘆花如雪雁声寒 〔蘆花は雪の如く 雁の声は寒し把酒・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・それほどきのうから寒くなった。今夜は一層である。冴返るなどと云う時節でもないに馬鹿馬鹿しいと外套の襟を立てて盲唖学校の前から植物園の横をだらだらと下りた時、どこで撞く鐘だか夜の中に波を描いて、静かな空をうねりながら来る。十一時だなと思う。―・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・「今夜はもう出ないのかしら」と、安岡は失望に似た安堵を感じて、ウトウトした。 と、また、昨夜と同じ人間の体温を頬の辺りに感じた。「確かに寝息をうかがってるんだ!」 だが、彼は今までどおりと同じ調子の寝息を、非常な努力のもとに・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・「さアそろそろ始まッたぞ。今夜は紋日でなくッて、紛紜日とでも言うんだろう。あッちでも始まればこッちでも始まる。酉の市は明後日でござい。さア負けたア負けたア、大負けにまけたアまけたア」と、西宮は理も分らぬことを言い、わざとらしく高く笑うと・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・試みに男子の胸裡にその次第の図面を画き、我が妻女がまさしく我に傚い、我が花柳に耽ると同時に彼らは緑陰に戯れ、昨夜自分は深更家に帰りて面目なかりしが、今夜は妻女何処に行きしや、その場所さえ分明ならずなどの奇談もあるべしと想像したらば、さすがに・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
出典:青空文庫