・・・「海蛇なんてほんとうにいるの?」 しかしその問に答えたのはたった一人海水帽をかぶった、背の高いHだった。「海蛇か? 海蛇はほんとうにこの海にもいるさ。」「今頃もか?」「何、滅多にゃいないんだ。」 僕等は四人とも笑い出・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・あの墓原の松のかげに、眠っていらっしゃる御両親は、天主のおん教も御存知なし、きっと今頃はいんへるのに、お堕ちになっていらっしゃいましょう。それを今わたし一人、はらいその門にはいったのでは、どうしても申し訣がありません。わたしはやはり地獄の底・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・ もっとも向うの身になって見れば、母一人が患者ではなし、今頃はまだ便々と、回診か何かをしているかも知れない。いや、もう四時を打つ所だから、いくら遅くなったにしても、病院はとうに出ている筈だ。事によると今にも店さきへ、――「どうです?」・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・「今頃まで何所さいただ。馬は村の衆が連れて帰ったに。傷しい事べおっびろげてはあ」 妻は眠っていなかったようなはっきりした声でこういった。彼れは闇に慣れて来た眼で小屋の片隅をすかして見た。馬は前脚に重味がかからないように、腹に蓆をあて・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・越後へ行く飛脚だによって、脚が疾い。今頃はもう二股を半分越したろう、と小窓に頬杖を支いて嘲笑った。 縁の早い、売口の美い別嬪の画であった。主が帰って間もない、店の燈許へ、あの縮緬着物を散らかして、扱帯も、襟も引さらげて見ている処へ、三度・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ きく奴も、聞く奴だが、「早うて、……来月の今頃だあねえ。」「成程。」 まったく山家はのん気だ。つい目と鼻のさきには、化粧煉瓦で、露台と言うのが建っている。別館、あるいは新築と称して、湯宿一軒に西洋づくりの一部は、なくてはな・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・外国人が褒めなかったなら、あるいは褒めても高い価を払わなかったなら、古い錦絵は既くの昔し張抜物や、屏風や襖の下張乃至は乾物の袋にでもなって、今頃は一枚残らず失くなってしまったろう。少くも貧乏な好事家に珍重されるだけで、精々が黄表紙並に扱われ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
一 二葉亭が存命だったら 二葉亭が存命だったら今頃ドウしているだろう? という問題が或る時二葉亭を知る同士が寄合った席上の話題となった。二葉亭はとても革命が勃発した頃まで露都に辛抱していなかったろうと思うが、仮に当時に居合わした・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・それで私はおそるおそる分会長の前へ出頭すると、分会長はいきなり私の顔を撲って、莫迦野郎、今頃来る奴があるかと奴鳴った。 私は点呼令状と腕時計をかわるがわる見せて、令状には午前七時に出頭すべしとあるが、今はまだ七時前であるという意味のこと・・・ 織田作之助 「髪」
・・・ありませんか、と妙に見当はずれた、しかし痛いことを言い、そして、あんたは軽部さんのことそんな風に言うけれど、私はなんだか素直な、初心な人だと思うよ、変に小才の利いた、きびきびした人の所へお嫁にやって、今頃は虐められてるんじゃないかと思うより・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
出典:青空文庫