・・・二間あるかなしの庭に、植木といったら柘榴か何かの見すぼらしいのが一株塀の陰にあるばかりで、草花の鉢一つさえない。今頃なら霜解けを踏み荒した土に紙屑や布片などが浅猿しく散らばりへばりついている。晴れた日には庭一面におしめやシャツのような物を干・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・いかほど悲しい事辛い事があっても、それをば決して彼のサラ・ベルナアルの長台詞のようには弁じ立てず、薄暗い行燈のかげに「今頃は半七さん」の節廻しそのまま、身をねじらして黙って鬱込むところにある。昔からいい古した通り海棠の雨に悩み柳の糸の風にも・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・その度に堂内に安置された昔のままなる賓頭盧尊者の像を撫ぜ、幼い頃この小石川の故里で私が見馴れ聞馴れたいろいろな人たちは今頃どうしてしまったろうと、そぞろ当時の事を思い返さずにはいられない。 そもそも私に向って、母親と乳母とが話す桃太郎や・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・かく観ぜんと思い詰めたる今頃を、わが乗れる足台は覆えされて、踵を支うるに一塵だになし。引き付けられたる鉄と磁石の、自然に引き付けられたれば咎も恐れず、世を憚りの関一重あなたへ越せば、生涯の落ち付はあるべしと念じたるに、引き寄せたる磁石は火打・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・「だっておかしいじゃないか、今頃花が咲くのは」「構うものかね、おかしいたって、屋根にかぼちゃの花が咲くさ」「そりゃ唄かい」「そうさな、前半は唄のつもりでもなかったんだが、後半に至って、つい唄になってしまったようだ」「屋根・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・「又三郎さんは去年なも今頃ここへ来たか。」「去年は今よりもう少し早かったろう。面白かったねえ。九州からまるで一飛びに馳けて馳けてまっすぐに東京へ来たろう。そしたら丁度僕は保久大将の家を通りかかったんだ。僕はね、あの人を前にも知ってい・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・そして、今頃お日さまがあんな空のまん中にお出でになるなんて、おかしいじゃないか。」 大将が申しました。「いや、ご心配ありません。ここは種山ヶ原です。」 楢夫がびっくりしました。「種山ヶ原? とんでもない処へ来たな。すぐうちへ・・・ 宮沢賢治 「さるのこしかけ」
・・・――私はひとりでに、北方の山並を思い起した。今頃は、どの耕野をも満して居るだろう冬枯れの風の音と、透明そのもののような空気の厳かさを想った。底冷えこそするが、此庭に、そのすがすがしさが十分の一でもあるだろうか。 ――間近に迫った人家の屋・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・ 指の先まで鼓動が伝わって来る様で旅費のお札をくる時意くじなくブルブルとした。 今頃私が立つ様になろうとは思って居なかった祖母は私に下さるお金をくずしにすぐそばの郵便局まで行って下すった。 四角い電燈の様なもののささやかな灯影が・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・ 今頃お前、夕飯前でこれから焚くとこやがな。」「ちょびっとでも好えがな。」「じゃ見て来てやるわ。」 お霜は台所へ這入った。勘次は表へ出て北の方を眺めてみたが、秋三の姿は竹藪の向うに消えていた。彼は又秋三とひと争いをしなければなら・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫