・・・彼は兄の病臥している山の事務所を引き揚げて、その時K市のステーションへ著いたばかりであったが、旅行先から急電によって、兄の見舞いに来たので、ほんの一二枚の著替えしかもっていなかったところから、病気が長引くとみて、必要なものだけひと鞄東京の宅・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・孝の字を忠に代えて見るがいい。玉体ばかり大切する者が真の忠臣であろうか。もし玉体大事が第一の忠臣なら、侍医と大膳職と皇宮警手とが大忠臣でなくてはならぬ。今度の事のごときこそ真忠臣が禍を転じて福となすべき千金の機会である。列国も見ている。日本・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・私は乳母が衣服を着換えさせようとするのも聞かず、人々の声する方に馳け付けたが、上框に懐手して後向きに立って居られる母親の姿を見ると、私は何がなしに悲しい、嬉しい気がして、柔い其の袖にしがみつきながら泣いた。「泣蟲ッ、朝腹から何んだ。」と・・・ 永井荷風 「狐」
・・・日本服に着換えて、身顫いをしてようやくわれに帰った頃を見計って婆さんはまた「どうなさいました」と尋ねる。今度は先方も少しは落ついている。「どうするって、別段どうもせんさ。ただ雨に濡れただけの事さ」となるべく弱身を見せまいとする。「い・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・主客の対立を形式と内容または質料との対立に代えても同様である。フィヒテに至っては、周知の如く、かかる不徹底的矛盾を除去すべく、認識主観の実体化の方向に進んだ。述語的主体は自己自身を限定する形而上学的実体となった。それがフィヒテの超越的自我で・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・ 張り替えたばかりではあるが、朦朧たる行燈の火光で、二女はじッと顔を見合わせた。小万がにッこりすると吉里もさも嬉しそうに笑ッたが、またさも術なそうな色も見えた。「平田さんが今おいでなさッたから、お梅どんをじきに知らせて上げたんだよ」・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・しかしふと気を換えて罷めた。そして爺いさんの後姿を見送っているうちに、気が落ち着いた。一本腕は肩を聳かした。「馬鹿爺い奴。どこへでも往きゃあがれ。いずれ四文もしないガラス玉か何かだろう。あんな手品に乗って気を揉んだのは、馬鹿だった。」こう云・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・四月五日 日南万丁目へ屋根換えの手伝え(にやられた。なかなかひどかった。屋根の上にのぼっていたら南の方に学校が長々と横わっているように見えた。ぼくは何だか今日は一日あの学校の生徒でないような気がした。教科書は明日買う。・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 酒屋の御用聞に道を教わって、何年も代えない古ぼけた門の前に立った時、気のゆるみと、これからたのむ事の辛さに落つきのない、一処を見つめて居られない様な気持になった。 大小不同の歩き工合の悪い敷石を長々と踏んで、玄関先に立つと、すぐ後・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・鳩の卵を抱いているとき、卵と白墨の角をしたのと取り換えて置くと、やはりその白墨を抱いている。目的は余所になって、手段だけが実行せられる。塵を取るためとは思わずに、はたくためにはたくのである。 尤もこの女中は、本能的掃除をしても、「舌の戦・・・ 森鴎外 「あそび」
出典:青空文庫