・・・ 魚容は仰天して立ち上り、それから少し躊躇したが、ええ、ままよ、といきなり美女の細い肩を掻き抱いた。「離して。いきが、とまるわよ。」と竹青は笑いながら言って巧みに魚容の腕からのがれ、「あたしは、どこへも行かないわよ。もう、一生あなた・・・ 太宰治 「竹青」
・・・着想の妙、仰天するばかりだ。ぶちこわしである。破天荒である。この一句があらわれたばかりに、あと、ダメになった。つづけ様が無いのである。去来ひとりは意気天をつかんばかりの勢いである。これは、師の芭蕉の罪でもある。あいまいに、思わせぶりの句を作・・・ 太宰治 「天狗」
・・・こちらが、すべての肉親を仰天させ、母には地獄の苦しみを嘗めさせて迄、戦っているのに、おまえ一人、無智な自信でぐったりしているのは、みっとも無い事である、と思った。毎日でも私に手紙を寄こすべきである、と思った。私を、もっともっと好いてくれても・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔にかか・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・ 勝治は仰天した。小さい眼をむき出して父を見つめるばかりで、言葉が出なかった。「お金をかえして、」父は庭の新緑を眺めながら、「ひまを出します。結婚の約束をしたそうですが、」幽かに笑って、「まさか君も、本気で約束したわけじゃあないでし・・・ 太宰治 「花火」
・・・六月にはいると、盆地特有の猛烈の暑熱が、じりじりやって来て、北国育ちの私は、その仮借なき、地の底から湧きかえるような熱気には、仰天した。机の前にだまって坐っていると、急に、しんと世界が暗くなって、たしかに眩暈の徴候である。暑熱のために気が遠・・・ 太宰治 「美少女」
・・・すると作蔵君はよほど仰天したと見えやして助けてくれ、助けてくれと褌を置去りにして一生懸命に逃げ出しやした……」「こいつあ旨え、しかし狸が作蔵の褌をとって何にするだろう」「大方睾丸でもつつむ気だろう」 アハハハハと皆一度に笑う。余・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・唯仰天す可きのみ。抑も子宮の字は洋語の Uterusに当り、相互直訳の文字にして、西洋諸国に於ては医師社会に限りて之を用い、診察治療の必要に迫れば極内々に患者又は其家人に之を告ぐるのみ。医事に関する要談の外に、西洋国人の口よりユーテルスの語・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・彼女は、仰天してころがるように室からかけ出した。 コレクチーブ秘書のソモフが、人のいい胡麻塩髯をふるわしてとび込んで来た。 グラフィーラは醋酸を飲んだのである。 四 三ヵ月ほど経った或る日のことであ・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
・・・ そのぼやけた表紙から、はじけた綴目から、裏まで細々と見てから、中についた幾枚もの写真を、はたで見るものがあったら仰天する位の丁寧さでしらべて行った。 何々の宮殿下、何々侯爵、何子爵、何……夫人、と目にうつる写真の婦人のどれもどれも・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
出典:青空文庫