・・・その夜もグラノフォンは僕等の話にほとんど伴奏を絶ったことはなかった。「ちょっとあの給仕に通訳してくれ給え。――誰でも五銭出す度に僕はきっと十銭出すから、グラノフォンの鳴るのをやめさせてくれって。」「そんなことは頼まれないよ。第一他人・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・ 頭に手を当てて、膝の上を見て、ラジオ欄の「独唱と管弦楽、杉山節子、伴奏大阪放管」という所を見ると、「杉山節子……? そうだ、たしかそんな名前だった。大阪放管? じゃ、大阪からの放送だ」 と、呟いていたが、やがてそわそわと起ち上・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・おわりに、くろんぼは謡をひとくさり唄った。伴奏は太夫のむちの音であった。シャアボン、シャアボンという簡単な言葉である。少年は、その謡のひびきを愛した。どのようにぶざまな言葉でも、せつない心がこもっておれば、きっとひとを打つひびきが出るものだ・・・ 太宰治 「逆行」
・・・音楽の本質は、あくまでも生活の伴奏であるべきだと思うんです。僕は今夜、久し振りにモオツアルトを聞き、音楽とは、こんなものだとつくづく、……」「僕は、ここから乗るがね。」 有楽町駅である。「ああ、そうですか、失礼しました。今夜は、・・・ 太宰治 「渡り鳥」
・・・ このかすかな伴奏の音が、別れた後の、未来に残る二人の想いの反響である。これが限りなく果敢なく、淋しい。「あかあかとつれない秋の日」が、野の果に沈んで行く。二人は、森のはずれに立って、云い合わせたように、遠い寺の塔に輝く最後の閃光を・・・ 寺田寅彦 「秋の歌」
・・・それかといって、人形の演技は決してこの音楽のただの伴奏ではなくて、聴覚的音楽に対する視覚的音楽の対位法であり、立派な合奏である。もっともこの関係は歌舞伎でも同様なわけであろうが、人形芝居において、それがもっとも純化され高調されているように思・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・は六拍子であって、その伴奏のあの特徴ある六連音の波のうねりが糸車の回転を象徴しているようである。これだけから見ても西洋の糸車と日本の糸車とが全くちがった詩の世界に属するものだということがわかると思う。 この糸車の追憶につながっている子供・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・で突進する機関車のエンジンの運動と汽笛の音と伴奏音楽との合成的律動や、「自由をわれらに」における工場の鎚の音、「人生案内」の線路工事の鉄挺の音の使用などのようなのがそれである。これらの雑音だけで、音楽を抜きにしてもおそらくある程度までは同様・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・ 太鼓の描くこの主題の伴奏としてはラッパのほかに兵隊の靴音がある。これがある時は石畳みの街路の上に、ある時は岩山の険路の上にまたある時は砂漠の熱砂の上に、それぞれに異なる音色をもって響くのである。 これらの音につれてスクリーンに現わ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・そういう田舎の名づけ親のおじさんの所へ遊びに行ったにんじんが、そこの幼いマチルドと婚礼ごっこをして牧場を練り歩く場面で、あひるや豚や牛などがフラッシで断続交互して現われ、おじさんの紙腔琴に合わせて伴奏をするところも呼吸がよく合って愉快である・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
出典:青空文庫