・・・その間に個人の生命も住所も如何になるべきか明らかならざるなり。しかれども日本政府の眼より見れば五十年は決して長からず、南海岸は邦土の一部分なり。この予報がなし得らるれば、これによりて国家が享くべき直接間接の利益は少なからざるべし。 噴火・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・また同じ人の名が色々な住所と結合してぱらぱらに散在しているので、どれが現住所であるか、当人でさえ時々間違えることがありそうである。年賀はがきを大切にしまっておくのももっともな訳である。ただし市会議員のよこしたのだけは紙くずかごに入れるようで・・・ 寺田寅彦 「年賀状」
・・・ 彼は手紙の終りにある住所と名前を見ながら、茶碗に注いであった酒をぐっと一息に呻った。「へべれけに酔っ払いてえなあ。そうして何もかも打ち壊して見てえなあ」と怒鳴った。「へべれけになって暴れられて堪るもんですか、子供たちをどうしま・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・銅板に墨で住所氏名を書いた見本が並べられている。モーニングを着て老妻をつれた年寄の男が、紋付羽織の案内人にそこへ惰勢的に引こまれている。 小豆島の村にも八十八ヵ所のお札所があり、そこの第一番のお札所を建て直すとき、やっぱりこういう風に、・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
・・・その紙に住所姓名職業年などを書くのだそうです。○○○さんが帯の間にはさんで持って来ていた鉛筆でそれぞれ書き込み、職業というところでゆきつまりました。失業中なのです、と云ったら○○○さんが「失業と書きなさいよ。貴女がわるいんじゃあるまいし」と・・・ 宮本百合子 「共産党公判を傍聴して」
・・・頁の右肩に英語で肩書や住所などの印刷された、純白で透し模様のあるパリパリした薄い紙はどんなに私を誘惑しただろう。どうか使って見たい。一度、あの紙で手紙を書いて見たい。私は、到頭その紙をそろりと引出し、一大事のような亢奮を覚え乍ら、それで手紙・・・ 宮本百合子 「木蔭の椽」
・・・一人が看守に住所姓名を云っている間に、他の一人がこっちにチラリと流眄をくれ、何か合図をした。女の同志は濡手拭で頬を押えたまま金網へすりついて立っている。新たに来た二人は別々の監房へ入れられた。「くやしいわ、二人とも×××車庫で、しっかり・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・亀蔵と云う、無頼漢とも云えば云われる、住所不定の男のありかを、日本国中で捜そうとするのは、米倉の中の米粒一つを捜すようなものである。どの俵に手を着けて好いか分からない。然しそれ程の覚束ない事が、一方から見れば、是非共為遂げなくてはならぬ事で・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・ それは名を喜助と言って、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。もとより牢屋敷に呼び出されるような親類はないので、舟にもただ一人で乗った。 護送を命ぜられて、いっしょに舟に乗り込んだ同心羽田庄兵衛は、ただ喜助が弟殺しの罪人だという・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・さみしさ凄さはこればかりでもなくて、曲りくねッたさも悪徒らしい古木の洞穴には梟があの怖らしい両眼で月を睨みながら宿鳥を引き裂いて生血をぽたぽた…… 崖下にある一構えの第宅は郷士の住処と見え、よほど古びてはいるが、骨太く粧飾少く、夕顔の干・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫