・・・しかし私がその努力にやっと成功しそうになると、彼は必ず音を立てて紅茶を啜ったり、巻煙草の灰を無造作に卓子の上へ落したり、あるいはまた自分の洒落を声高に笑ったり、何かしら不快な事をしでかして、再び私の反感を呼び起してしまうのです。ですから彼が・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ 何かしら絆が搦んでいるらしい、判事は、いずれ不祥のことと胸を――色も変ったよう、「どうかしたのかい、」と少しせき込んだが、いう言葉に力が入った。「煩っておりますので、」「何、煩って、」「はい、煩っておりますのでございま・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・なんでも剛胆なやつが危険な目に逢えば逢うほど、いっそう剛胆になるようで、何かしら邪魔がはいれば、なおさら恋しゅうなるものでな、とても思い切れないものだということを知っているから、ここでおもしろいのだ。どうだい、おまえは思い切れるかい、うむ、・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・何でも個性を発揮しなければ気が済まないのが椿岳の性分で、時偶市中の出来合を買って来ても必ず何かしら椿岳流の加工をしたもんだ。 なお更住居には意表外の数寄を凝らした。地震で焼けた向島の梵雲庵は即ち椿岳の旧廬であるが、玄関の額も聯も自製なら・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・「人の心の中に、何かしらないものが住んでいる。そして、たえず、あらゆる人間に何をか訴へている。それは、即ち愛である」と。 幾千年の過去に於てそうであった。恐らくまた、永久の未来に於て、変りのないことであろう。 思うに、我等の芸術・・・ 小川未明 「彼等流浪す」
・・・そうした風景に私は何故惹きつけられるのか、はっきり説明出来ないのであるが、ただそこに何かしら哀れな日々の営みを感ずることはたしかである。はかなく哀れであるが、しかしその営みには何か根強いものがある。それを大阪の伝統だとはっきり断言することは・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・三百円あっても大したことはないが、三百円はいったということで、少し甦った気になるね。何かしら元気がついて、一人の子供が思い切って靴磨きに行く。この収入月にいくらすくなくても五百円になるだろう。いや、新円以後もっとすくなくて、三百円かな。じゃ・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・――こうした悪虐な罪人がなお幾年かを続けねばならぬ囚人生活の中からただ今先生のために真剣な筆を走らしていますことは、何かしら深い因縁のあることと思います。ぶしつけな不遜な私の態度を御赦しくださいませ――なおもなおも深く身を焦さねばならぬ煩悩・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・それで昨夜チチシスのシがアの字の間違いであったことがすぐ気づかれてホッと安心の太息をついたが、同時に何かしら憑き物にでも逃げだされたような放心の気持と、禅に凝ってるのではないかと言った弟の言葉が思いだされて、顔の赧くなるのを感じた。……・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・景を思い浮かべることができるのだったが、その女がその言葉を信じてほかのものではない自分の弟の脳味噌の黒焼きをいつまでも身近に持っていて、そしてそれをこの病気で悪い人に会えばくれてやろうという気持には、何かしら堪えがたいものを吉田は感じないで・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
出典:青空文庫