・・・へ行き、コーヒー一ぱい飲んで、やっぱり旗色がわるく、そのまま、すっと帰って、その帰途、兄は、花屋へ寄ってカーネーションと薔薇とを組合せた十円ちかくの大きな花束をこしらえさせ、それを抱えて花屋から出て、何だかもじもじしていましたので、私には兄・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・ 向島の長い土手は、花の頃は塵埃と風と雑沓とで行って見ようという気にはなれないが、花が散って、若葉が深くなって、茶店の毛布が際立って赤く見えるころになると、何だか一日の閑を得て、暢気に歩いて見たいような心地がする。 散歩には此頃は好・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・この縞はたぶん紙を漉く時に繊維を沈着させる簾の痕跡であろうが、裏側の荒い縞は何だか分らなかった。 指頭大の穴が三つばかり明いて、その周囲から喰み出した繊維がその穴を塞ごうとして手を延ばしていた。 そんな事はどうでもよいが、私の眼につ・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・私はそのおきぬさんの家の庭の泉石を隔てたお亭のなかに暮らしていたのであった。私は何だかその土地が懐かしくなってきた。「せめて須磨明石まで行ってみるかな」私は呟いた。「は、叔父さんがお仕事がおすみでしたら……」桂三郎は応えた。 私・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・たった二日か三日しか畑も田圃も見ないのだが、何だか三年も吾子に逢わないような気がした。「もう嫁達は、川端田圃へゆきついた時分だろう……」 頃合をはかって、善ニョムさんは寝床の上へ、ソロソロ起きあがると、股引を穿き、野良着のシャツを着・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・此れ以来、私には何だか田崎と云う書生が、恐いような、憎いような気がして、あれはお父さんのお気に入りで、僕等だの、お母さんなどには悪い事をする奴であるように感じられてならなかった。 正月一ぱい、私は紙鳶を上げてばかり遊び暮した。学校のない・・・ 永井荷風 「狐」
・・・として取扱うから、感激的であるけれども、その材料が読む者聞く者には全く、没交渉で印象にヨソヨソしい所がある、これに引き換えてナチュラリズムは、如何に汚い下らないものでも、自分というものがその鏡に写って何だか親しくしみじみと感得せしめる。能く・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・一団の人々がここかしこに卓を囲んで何だか話し合っていた。やがて宴が始まってデザート・コースに入るや、停年教授の前に坐っていた一教授が立って、明晰なる口調で慰労の辞を述べた。停年教授はと見ていると、彼は見掛によらぬ羞かみやと見えて、立つて何だ・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・第一何が何だかさっぱり話が分らねえじゃねえか、人に話をもちかける時にゃ、相手が返事の出来るような物の言い方をするもんだ。喧嘩なら喧嘩、泥坊なら泥坊とな」「そりゃ分らねえ、分らねえ筈だ、未だ事が持ち上らねえからな、だが二分は持ってるだろう・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 吉里は燭台煌々たる上の間を眩しそうに覗いて、「何だか悲アしくなるよ」と、覚えず腮を襟に入れる。「顔出しだけでもいいんですから、ちょいとあちらへおいでなすッて下さい」と、例のお熊は障子の外から声をかけた。「静かにしておくれ。お客・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫