・・・その醜態は何事だ!」父は暗い空の上からこう言った気がして、私はフラフラと昏倒するような気持になった。そこの梅の老木の枝ぶりも、私には誘惑だった。私はコソコソと往きとは反対の盗み足で石段を帰ってきたが、両側の杉や松の枝が後ろから招いてる気がし・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・そしてその服地の匂いが私の寂寥を打ったとき、何事だろう、その威厳に充ちた姿はたちまち萎縮してあえなくその場に仆れてしまった。私は私の意志からでない同様の犯行を何人もの心に加えることに言いようもない憂鬱を感じながら、玄関に私を待っていた友達と・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・者にて当今の女学校に入学せしことなければ、育児学など申す学問いたせしにもあらず、言わば昔風の家に育ちしただの女が初めて子を持ちしまでゆえ、無論小児を育てる上に不行き届きのこと多きに引き換え、母上は例の何事も後へは退かぬご気性なるが上に孫かあ・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・此の書は白楽天が楽府にも越え、仏の未来記にもをとらず、末代の不思議何事かこれに過ぎん。」 そこで日蓮は今度こそ幕府から意見を徴せらるることを期待したが、やはり何の沙汰もなかった。日蓮はここにおいて決するところあり、自ら進んで、積極的に十・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・雪に接している白い小さい唇が、彼等に何事かを叫びかけそうだった。「殺し合いって、無情なもんだなあ!」 彼等は、ぐっと胸を突かれるような気がした。「おい、俺れゃ、今やっと分った。」と吉原が云った。「戦争をやっとるのは俺等だよ。」・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・丈夫づくりの薄禿の男ではあるが、その余念のない顔付はおだやかな波を額に湛えて、今は充分世故に長けた身のもはや何事にも軽々しくは動かされぬというようなありさまを見せている。 細君は焜炉を煽いだり、庖丁の音をさせたり、忙がしげに台所をゴトツ・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・――お君は気が気でなかった。――何事があろうと、赤子を死なしてはならないと思った。 資本家は不景気の責任を労働者に転嫁して、首切りをやる。それを安全にやるために、われ/\の前衛を牢獄につないで置くのだ、――今になって見ると、お君にはその・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・おさだは悲鳴を揚げないばかりにして自分の母親の方へ飛んで行った。何事かと部屋を出て見る直次の声もした。おげんは意外な結果に呆れて、皆なの居るところへ急いで行って見た。そこには母親に取縋って泣顔を埋めているおさだを見た。「ナニ、何でもない・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・それでたくさんである。何事も二日に現れた以外に聞かぬ方がいい。もしやよけいなことを聞いたりして、千鳥の話の中の彼女に少しでも傷がついては惜しいわけである。こう思ったから自分はその夕方、小母さんや初やなどに会うのが気になった。二人が何とか藤さ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・もうこれで今夜は、何事も仕出かさずにすむと思った。「どこへ置きましょう。」「燭台は高きに置け、とバイブルに在るから、高いところがいい。その本箱の上へどうだろう。」「お酒は? コップで?」「深夜の酒は、コップに注げ、とバイブル・・・ 太宰治 「朝」
出典:青空文庫