・・・ 疑う人におよそ二種ある。先人の知識を追究してその末を疑うものは人知の精をきわめ微を尽くす人である。 何人も疑う所のない点を疑う人は知識界に一時機を画する人である。 一人にしてその二を兼ぬる人ははなはだまれである、これを具備した・・・ 寺田寅彦 「知と疑い」
上 政府が官選文芸委員の名を発表するの日は近きにありと伝えられている。何人が進んでその嘱に応ずるかは余の知る限りでない。余はただ文壇のために一言して諸君子の一考を煩わしたいと思うだけである。 政府は・・・ 夏目漱石 「文芸委員は何をするか」
・・・この四つのうちに、重要の度からして差等の点数をつけて見ろと云われた時に、何人もこれをあえてする事はできないはずと思います。もしあるとすれば答案を調べずに点数をつける乱暴な教員と同じもので、言語道断の不心得であります。ただ吾は時勢の影響を受け・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・此智此徳の間に頭出頭没する者は此智此徳を知ることはできぬ。何人であっても赤裸々たる自己の本体に立ち返り、一たび懸崖に手を撒して絶後に蘇った者でなければこれを知ることはできぬ、即ち深く愚禿の愚禿たる所以を味い得たもののみこれを知ることができる・・・ 西田幾多郎 「愚禿親鸞」
・・・しかしそれは考えられた自己であって、考える自己ではない。何人の自己でもあり得る自己である。自覚的自己の自己存在形式ではない。 知るということは事実ではあるが、単に時間空間的事実としては、知るということは考えられない。知るものは、時空の世・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・見ますとね、先刻の何人でも呪いそうな彼の可怖い眼の方が、隣の列車の窓につかまって泣いてらッしゃるのでした、多くの人目も羞じないで。鋭い声の、あれが泣饒舌と云うのかも知れませんね。『兄さん、貴方は死んで呉れちゃいやですよ。決して死ぬんじゃ・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・人間性・知性が重圧をとりのぞかれてむら立つように声をあげはじめたとき、自我の確立とか自意識とかいうことが言われはじめたとき、そういう角度を手がかりとして自分の人生を見なおしはじめた若い人たちのうちで、何人が「チボー家の人々」をよんでいただろ・・・ 宮本百合子 「生きつつある自意識」
・・・級全体が選挙して、文化委員、衛生委員、学務委員というものを何人かずつきめる。 その委員たちが、みんなといろいろ相談し、学校の湯呑場、手洗場が清潔かどうかということから、先学期は、どの課目が級全体としておくれたから、今学期はそれをどうとり・・・ 宮本百合子 「従妹への手紙」
・・・ 何人も気がつくごとく、ここに陳列せられた洋画は主として写生画である。どの流派を追い、どの筆法を利用するにしても、要するに洋画家の目ざすところは、目前に横たわる現実の一片を捕えて、それを如実に描き出すことである。彼らにとって美は目前に在・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
・・・しかし再興せられた偶像はもはや礼拝せらるべき神ではない。何人もその前に畜獣を屠って供えようとはしなかった。何人もその手に自己の運命を委ねようとはしなかった。人々に身震いをさせたのはそれが異端の神であったゆえではなくして、それが美しかったから・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫