・・・元浅野内匠頭家来、当時細川家に御預り中の大石内蔵助良雄は、その障子を後にして、端然と膝を重ねたまま、さっきから書見に余念がない。書物は恐らく、細川家の家臣の一人が借してくれた三国誌の中の一冊であろう。 九人一つ座敷にいる中で、片岡源五右・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・と思うとまた、向こうに日を浴びている漁夫の翁も、あいかわらず網をつくろうのに余念がない。こういう風景をながめていると、病弱な樗牛の心の中には、永遠なるものに対するしょうけいが汪然としてわいてくる。日も動かない。砂も動かない。海は――目の前に・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・するとそこには依然として、我毛利先生が、まるで日の光を貪っている冬蠅か何かのように、じっと石段の上に佇みながら、一年生の無邪気な遊戯を、余念もなく独り見守っている。その山高帽子とその紫の襟飾と――自分は当時、むしろ、哂うべき対象として、一瞥・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・ と、余念なさそうに頷いた――風はいま吹きつけたが――その不思議に乱れぬ、ひからびた燈心とともに、白髪も浮世離れして、翁さびた風情である。「翁様、娘は中肉にむっちりと、膚つきが得う言われぬのが、びちゃびちゃと潮へ入った。褄をくるりと・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 二人が余念なく話をしながら帰ってくると、背戸口の四つ目垣の外にお増がぼんやり立って、こっちを見て居る。民子は小声で、「お増がまた何とか云いますよ」「二人共お母さんに云いつかって来たのだから、お増なんか何と云ったって、かまやしな・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・相変らず、蓄財に余念がなかった。お君が豹一に小遣いを渡すのを見て、「学校やめた男に金をやらんでもええやないか」 そして、お君が賃仕事で儲ける金をまきあげた。豹一が高等学校へはいるとき、安二郎はお君に五十円の金を渡した。貰ったものだと・・・ 織田作之助 「雨」
・・・』『そうね』とお絹が応えしままだれも対手にせず、叔母もお常も針仕事に余念なし。家内ひっそりと、八角時計の時を刻む音ばかり外は物すごき風狂えり。『時に吉さんはどうしてるだろう』と幸衛門が突然の大きな声に、『わたしも今それを思ってい・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・その冷ややかな陰の水際に一人の丸く肥ッた少年が釣りを垂れて深い清い淵の水面を余念なく見ている、その少年を少し隔れて柳の株に腰かけて、一人の旅人、零落と疲労をその衣服と容貌に示し、夢みるごときまなざしをして少年をながめている。小川の水上の柳の・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・けれどもが、さし向かえば、些の尊敬をするわけでもない、自他平等、海藻のつくだ煮の品評に余念もありません。「戦争がないと生きている張り合いがない、ああツマラない、困った事だ、なんとか戦争を始めるくふうはないものかしら。」 加藤君が例の・・・ 国木田独歩 「号外」
・・・ブルジョア政府は、ひたすら、戦争の準備に余念がない。資本主義的平和は、その実質を見ると、次の戦争への準備にすぎないのである。科学的発明も、化学工業も、鉄道敷設も、電信も道路の開通も、すべてが、資本主義の下にあっては、戦争準備の目標に向って集・・・ 黒島伝治 「反戦文学論」
出典:青空文庫