・・・人間は何をしたってそれは各自の自由だがね、併し正を踏んで倒れると云う覚悟を忘れては、結局この社会に生存が出来なくなる……」 ………… 空行李、空葛籠、米櫃、釜、其他目ぼしい台所道具の一切を道具屋に売払って、三百に押かけられないう・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・落ちかけた時調子の取りようが悪かったので、棒が倒れるように深いみぞにころげこんだ。そのため後脳をひどく打ち肋骨を折って親父は悶絶した。 見る間に付近に散在していた土方が集まって来て、車夫はなぐられるだけなぐられ、その上交番に引きずって行・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・「いやその安価のが私ゃ気に喰わんのだが、先ず御互の議論が通ってあの予算で行くのだから、そう安ぽい直ぐ欄の倒れるような険呑なものは出来上らんと思うがね」と言って気を更え、「其処で寄附金じゃが未だ大な口が二三残ってはいないかね?」「未だ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・こちらで引鉄を振りしめると、すぐ向うで豚が倒れるのが眼に見えた。それが実に面白かった。彼等は、一人が一匹をねらった。ところが初年兵の後藤がねらった一匹は、どうしたのか、倒れなかった。それは、見事な癇高いうなり声をあげて回転する独楽のように、・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・銃は倒れる男の身体について落ちて行った。 暫らくして、両脚を踏ンばって、剣を引きぬくと、それは、くの字形に曲っていた。 その曲ったあとがなかなかもとの通りになおらなかった。殺人をした証拠のようにいつまでも残っていた。「これからだ・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・私はどさんと、ぶっ倒れるようにベッドに寝ころがった。おやすみなさい、コンスタンチェ。 あくる日、二人の女は、陰鬱な灰色の空の下に小さく寄り添って歩いている。黙って並んで歩いている。女学生はさっきから、一言聞いてみたかった。あなたはあの人・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・と前置きをしてこの廟の廊下に行倒れるにいたった事情を正直に打明け、重ねて、「すみませんでした。」とお詫びを言った。 農夫は憐れに思った様子で、懐から財布を取出しいくらかの金を与え、「人間万事塞翁の馬。元気を出して、再挙を図るさ。人生・・・ 太宰治 「竹青」
・・・ けれどここに倒れるわけにはいかない。死ぬにも隠れ家を求めなければならぬ。そうだ、隠れ家……。どんなところでもいい。静かな処に入って寝たい、休息したい。 闇の路が長く続く。ところどころに兵士が群れを成している。ふと豊橋の兵営を憶い出・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・するとその一人は柱を倒すようにうつむきに倒れる。夜明けの光が森の上に拡がって、露の草原に虫が鳴いている。 草原がいつともなく海に変る。果もない波の原を分けて行く船の舷側にもたれて一人の男が立っている。今太陽の没したばかりの水平線の彼方を・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・たとえば最後の場面でお染が姉夫婦を見送ってから急に傷の痛みを感じてベンチに腰をかけるとき三味線がばたりと倒れるその音だけを聞かせるが、ただそれだけである。ああいう俳諧の「挙句」のようなところをもう一呼吸引きしめてもらいたいと思うのである。そ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
出典:青空文庫