・・・それから人が床の上へ、倒れる音も聞えたようです。遠藤は殆ど気違いのように、妙子の名前を呼びかけながら、全身の力を肩に集めて、何度も入口の戸へぶつかりました。 板の裂ける音、錠のはね飛ぶ音、――戸はとうとう破れました。しかし肝腎の部屋の中・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・踝くらいまでより水の来ない所に立っていても、その水が退いてゆく時にはまるで急な河の流れのようで、足の下の砂がどんどん掘れるものですから、うっかりしていると倒れそうになる位でした。その水の沖の方に動くのを見ていると眼がふらふらしました。けれど・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ その時、もう、これをして、瞬間の以前、立花が徒に、黒白も分かず焦り悶えた時にあらしめば、たちまち驚いて倒れたであろう、一間ばかり前途の路に、袂を曳いて、厚いふきを踵にかさねた、二人、同一扮装の女の童。 竪矢の字の帯の色の、沈んで紅・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ おとよはもう意地も我慢も尽きてしまい、声を立てて泣き倒れた。気の弱い母は、「そんならお前のすきにするがえいや」「ウム立派に剛情を張りとおせ。そりゃつらいところもあろう、けれども両親が理を分けての親切、少しは考えようもありそうな・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・』て泣き出し、またばッたり倒れたさかい、どないにやられたかて、同隊の軍曹が調べてやると、足の上を鳥渡敵弾にかすられたんであった。軍曹はその卒の背中をたたいて、『しっかりせい! こんな傷ならしばっとけばええ。』――」「随分滑稽な奴じゃない・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 女房は走れるだけ走って、草臥れ切って草原のはずれの草の上に倒れた。余り駈けたので、体中の脈がぴんぴん打っている。そして耳には異様な囁きが聞える。「今血が出てしまって死ぬるのだ」というようである。 こんな事を考えている内に、女房は段・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・木の芽は、もはや目をまわして、いまにも倒れそうになったのであります。 このとき、太陽は、見るに見かねて、風をしかりました。「なんで、そんなに小さい木の芽をいじめるのだ。おまえが騒ぎ狂いたいと思ったなら、高い山の頂へでも打衝るがいい、・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・驚いて拾い上げたが、もう縄に掛らなかったので、前掛けに包んで帰ろうとすると、石段につまずいて倒れた。手と膝頭を擦り剥いただけでしたが、私は手ぶらで帰っても浜子に折檻されない口実ができたと思ったのでしょう、通りかかった人が抱き起しても、死んだ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・少焉あって、一しきり藻掻いて、体の下になった右手をやッと脱して、両の腕で体を支えながら起上ろうとしてみたが、何がさて鑽で揉むような痛みが膝から胸、頭へと貫くように衝上げて来て、俺はまた倒れた。また真の闇の跡先なしさ。 ふッと眼が覚め・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・そこの今にも倒れそうになっている古板塀に縄を張って、朝顔がからましてあった。それがまた非常な勢いで蔓が延びて、先きを摘んでも摘んでもわきから/\と太いのが出て来た。そしてまたその葉が馬鹿に大きくて、毎日見て毎日大きくなっている。その癖もう八・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫