・・・松が小島、離れ岩、山は浮世を隔てて水は長えに清く、漁唱菱歌、煙波縹緲として空はさらに悠なり。倒れたる木に腰打ち掛けて光代はしばらく休らいぬ。風は粉膩を撲ってなまめかしき香を辰弥に送れり。 参りましょう。親父ももう帰って来る時分でございま・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・口惜いやら情けないやら、前後夢中で川の岸まで走って、川原の草の中に打倒れてしまった。 足をばたばたやって大声を上げて泣いて、それで飽き足らず起上って其処らの石を拾い、四方八方に投げ付けていた。 こう暴れているうちにも自分は、彼奴何時・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・あまりに慾張って、肥料を吸収しすぎた麦は、実らないさきに、青いまゝ倒れて、腐ってしまう。そのように、トルストイという肥料から、あまり慾張ってそれを吸収しすぎると、こっちが、肥料負けがしてあぶない。 僕は、「三つの死」のみず/\しい、詩に・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・一ト歩は一ト歩より遅くなって、やがて立止まったかと見えるばかりに緩く緩くなったあげく、うっかりとして脱石に爪端を踏掛けたので、ずるりと滑る、よろよろッと踉蹌る、ハッと思う間も無くクルリと転ってバタリと倒れたが、すぐには起きも上り得ないでまず・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ そして、この働きざかりのときにおいて、あるいは人道のために、あるいは事業のために、あるいは恋愛のために、あるいは意気のために、とにかく、自己の生命より重いと信ずるあるもののために、力のかぎり働いて、倒れてのちやまんとすることは、まず死に所・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・源吉は倒れたままちょっとの間ピクッピクッと動いていた。がフラフラと立ち上った。と土佐犬は吠えもせず飛びかかった。源吉はひとたまりもなくはね飛ばされて、空地を区切っている塀に投げつけられた。犬はまたせまった! 源吉は犬の方に向きなおった。そし・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・誰が見ても助かるまいと言った学士が危く一命を取留めた頃には、今度は正木大尉が倒れた。大尉は奥さんの手に子供衆を遺し、仕掛けた塾の仕事も半途で亡くなった。大尉の亡骸は士族地に葬られた。子供衆に遺して行った多くの和漢の書籍は、親戚の立会の上で、・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・スバーが、父の足許に泣き倒れて、顔を見上げ見上げ激しく啜泣き出した時、父親は、丁度昼寝から醒めたばかりで、寝室で煙草をのんでいる処でした。 バニカンタは、どうにかして、可哀そうな娘を慰めようとしました。そして、自分の頬も涙で濡てしまいま・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・孔子は、三十にして立つ、と言ったが、おれは、立つどころでは無い。倒れそうになった。生き甲斐を、身にしみて感じることが無くなった。強いて言えば、おれは、めしを食うとき以外は、生きていないのである。ここに言う『めし』とは、生活形態の抽象でもなけ・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・銃と背嚢とを二人から受け取ったが、それを背負うと危く倒れそうになった。眼がぐらぐらする。胸がむかつく。脚がけだるい。頭脳ははげしく旋回する。 けれどここに倒れるわけにはいかない。死ぬにも隠れ家を求めなければならぬ。そうだ、隠れ家……。ど・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫