去年の夏信州沓掛駅に近い湯川の上流に沿うた谷あいの星野温泉に前後二回合わせて二週間ばかりを全く日常生活の煩いから免れて閑静に暮らしたのが、健康にも精神にも目に見えてよい効果があったように思われるので、ことしの夏も奮発して出・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・ 桂三郎は、私の兄の養子であったが、三四年健康がすぐれないので、勤めていた会社を退いて、若い細君とともにここに静養していることは、彼らとは思いのほか疎々しくなっている私の耳にも入っていたが、今は健康も恢復して、春ごろからまた毎日大阪の方・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・わたくしの生涯はやはり今日あるが如きものとなってしまうより外には、道がなかったように思われる。わたくしの健康、性癖、境遇、それらのものを思返して見ると、わたくしの身は世間一般の人のように、善良なる家庭の父となり得られるはずはないようである。・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・かねてじょうぶであった娘の健康が、嫁にいってしばらくすると、目につくように衰えだした時に、彼らはもう相応に胸を傷めた。娘に会うたびに母親はどこか悪くはないかと聞いた。娘はただ微笑して、べつだんなんともないとばかり答えていた。けれどもその血色・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・ 薬物によるこうした旅行は、だが私の健康をひどく害した。私は日々に憔悴し、血色が悪くなり、皮膚が老衰に澱んでしまった。私は自分の養生に注意し始めた。そして運動のための散歩の途中で、或る日偶然、私の風変りな旅行癖を満足させ得る、一つの新し・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ それは、総て健康な、清々しい情景であり、且つ「朝」の溌溂さを持っていた。 船体の動揺の刹那まで、私の足の踝にジャックナイフの突き通るまでは、私にも早朝の爽快さと、溌溂さとがあった。けれども船体の一と揺れの後では、私の足の踝から先に・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・ 大略これを区別すれば、第一に一身を大切にして健康を保つこと。第二に活計の道、渡世の法を求めて衣食住に不自由なく生涯を安全に送ること。第三に子供を養育して一人前の男女となし、二代目の世の中にては、その子の父母となるに差支なきように仕込む・・・ 福沢諭吉 「家庭習慣の教えを論ず」
・・・要するに健康な人は死などという事を考える必要も無く、又暇も無いので、唯夢中になって稼ぐとか遊ぶとかしているのであろう。 余の如き長病人は死という事を考えだす様な機会にも度々出会い、又そういう事を考えるに適当した暇があるので、それ等の為に・・・ 正岡子規 「死後」
・・・よう、あなたの健康を祝します。」「よう、ご健康を祝します。いい酒です。貧乏な僕のお酒はまた一層に光っておまけに軽いのだ。」「けれどもぜんたいこれでいいんですか。あんまり光が過ぎはしませんか。」「いいえ心配ありません。酒があんなに・・・ 宮沢賢治 「チュウリップの幻術」
・・・わたしたちには工場も健康も大切です、どちらも自分のものだもの。……そうでしょう?」 わたしはこの言葉をきいて、体が熱くなるような感じにうたれた。革命まではロシアの工場でも、日本の工場と同じようなひどい条件で女が搾られていたのである。・・・ 宮本百合子 「明るい工場」
出典:青空文庫