・・・ ではなぜ我我は極寒の天にも、将に溺れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度に依ったのであろう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・遙か下の方からは、うざうざするほど繁り合った濶葉樹林に風の這入る音の外に、シリベシ河のかすかな水の音だけが聞こえていた。「聞いて見ずに」 妻は寒さに身をふるわしながらこううめいた。「汝聞いて見べし」 いきなりそこにしゃごんで・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・もう開けた店には客が這入る。 フレンチは車に乗った。締め切って、ほとんど真暗な家々の窓が後へ向いて走る。まだ寐ている人が沢山あるのである。朝毎の町のどさくさはあっても、工場の笛が鳴り、汽車ががたがた云って通り、人の叫声が鋭く聞えてはいて・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・それだといって、家の中へあんなものを連れて這入る訳にいかない事は、お前にだって解ろうじゃありませんか」と母はいった。「可哀そうね」とレリヤは繰り返して居たが、何だか泣きそうな顔になった。 その内別荘へ知らぬ人が来て、荷車の軋る音がした。・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・「どうして貴方に逢うまで、お飯が咽喉へ入るもんですか。」「まあ……」 黙ってしばらくして、「さあ。」 手を中へ差入れた、紙包を密と取って、その指が搦む、手と手を二人。 隔の襖は裏表、両方の肩で圧されて、すらすらと三寸・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・道路よりも少しく低いわが家の門内に入ると足が地につかない。自分は泳ぐ気味にして台所の軒へ進み寄った。 幸に家族の者が逃げる時に消し忘れたものらしく、ランプが点して釣り下げてあった。天井高く釣下げたランプの尻にほとんど水がついておった。床・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・――さて、これからが話の本文に這入るのやて――」「まア、一息つき給え」と、僕は友人と盃の交換をした。酔いもまわったのであろう、友人は、気質に似合わず、非常にいい気持ちの様子で、にこにこ笑うている。然し、その笑いが何となく寂しいのは、友人・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・万延元年の生れというは大学に入る時の年齢が足りないために戸籍を作り更えたので実は文久二年であるそうだ。「蛙の説」を『読売』へ寄書したのは大学在学時代で、それから以来も折々新聞に投書したというから、一部には既に名を認められていたろうが、洽く世・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・しかしながらただ今も申し上げましたとおり、かならずしも誰にでも入ることのできる道ではない。 ここにいたってこういう問題が出てくる。文学者にもなれず学校の先生にもなれなかったならば、それならば私は後世に何をも遺すことはできないかという問題・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・凡ての窮局によって人間は初めてある信仰に入る。自ら眼覚める。今の世の中の博愛とか、慈善とかいうものは、他人が生活に苦しみ、また境遇に苦しんでいる好い加減の処でそれを救い、好い加減の処でそれを棄てる。そして、終にこの人間に窮局まで達せしめぬ。・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
出典:青空文庫