・・・そしてちょっと不思議に感じられたのは、その文面全体を通じて、注意事項の親族云々を聯想させるような字句が一つとして見当らないのだが、それがたんに同姓というだけのことで検閲官の眼がごまかされたのだろうとも考えられないことだし、してみると、この文・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・裾のぼやけた、そして全体もあまりかっきりしない入道雲が水平線の上に静かに蟠っている。――「ああ、そうですな」少し間誤つきながらそう答えた時の自分の声の後味がまだ喉や耳のあたりに残っているような気がされて、その時の自分と今の自分とが変にそ・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ 四 あくまで無礼な、人を人とも思わぬかの東条という奴、と酔醒めの水を一息に仰飲って、辰弥は独りわが部屋に、眼を光らして一方を睨みつつ、全体おれを何と思っているのだ。口でこそそれとは言わんが、明らかにおれを凌辱した。・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・原などは余り経費がかかり過ぎるなんて理窟を並べたが、こういう実例が上ってみると文句はあるまい。全体大切な児童を幾百人と集るのだもの、丈夫な上に丈夫に建るのが当然だ。今日一つ原に会ってこの新聞を見せてやらなければならん」「無闇な事も出来ま・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・しかし文芸はその約束として個々の体験と事象との具象的描写を事とせねばならぬ故、人生全体としての指導原理の探究を目ざすことはできぬ。それ故一定の目的をもって文芸に向かうものにとっては、それは活きてはいるが低徊的である。それは行為の法則を与えよ・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 九 薄く、そして白い夕暮が、曠野全体を蔽い迫ってきた。 どちらへ行けばいいのか! 疲れて、雪の中に倒れ、そのまま凍死してしまう者があるのを松木はたびたび聞いていた。 疲労と空腹は、寒さに対する抵抗力を奪い去・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・万一異なところから木理がハネて、釣合を失えば、全体が失敗になる。御前でそういうことがあれば、何とも仕様は無いのだ。自分の不面目はもとより、貴人のご不興も恐多いことでは無いか。」 ここまで説かれて、若崎は言葉も出せなくなった。何の道にも苦・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・黄ばんだ柳の花を通して見た彼女――仮令一目でもそれが精しく細かく見たよりは、何となく彼女の沈着いて来たことや、自然に身体の出来て来たことや、それから全体としての女らしい姿勢を、反ってよく思い浮べることが出来た。 その晩、大塚さんは自分の・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・沈んでゆく月のように凝っと一つところにかかったり、又は、迅い閃く稲妻のように、空――眼全体を照したり。生れ落るとから、唇の戦きほか言葉を持たずに来たものは、表し方に限りがなく、海のように深く、曙、黄昏が光りや影を写す天のように澄んだ眼の言語・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・容貌を語ることに依って、その主人公に肉体感を与え、また聞き手に、その近親の誰かの顔を思い出させ、物語全体に、インチメートな、ひとごとでない思いを抱かせることができるものです。僕の考えるところに依れば、その老博士は、身長五尺二寸、体重十三貫弱・・・ 太宰治 「愛と美について」
出典:青空文庫