・・・寝台を並べてあるその下を、全速力で走らせるのである。勿論、立って走れる筈がない。そこで寝台の下を這いぬけて行く。しかしのろ/\這っている訳には行かない。ところが早く這うと鉄の寝台で頭を打つ。と云って、あまり這いようがおそいと、再三繰りかえさ・・・ 黒島伝治 「入営前後」
・・・栗毛の肉のしまった若々しい馬は全速力で馳せのがれて来たため、かなり疲れて、呼吸がはずんでいた。 裏通りの四五軒目の、玄関とも、露台ともつかないような入口の作りつけられている家の前で、ウォルコフは、ひらりと身がるく馬からおりた。 人々・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・そうして全速力で走り出す。スクリーンの面で船や橋や起重機が空中に舞踊し旋回する。その前に二人の有頂天になってはしゃいでいる姿が映る。そうしたあとで、テナシティのデッキの上から「あしたは出帆だ」とどなるのをきっかけに、画面の情調が大きな角度で・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・構うものかと薩摩下駄を引掛けて全速力で四谷坂町まで馳けつける。門は開いているが玄関はまだ戸閉りがしてある。書生はまだ起きんのかしらと勝手口へ廻る。清と云う下総生れの頬ペタの赤い下女が俎の上で糠味噌から出し立ての細根大根を切っている。「御早よ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 吉田は、そう考えることによって、何かのいい方法を――今までにもう幾度か最後の手段に出た方がいい、と考えたにも拘らず、改めて又、――いい方法を、と、それが汗の中にでもあるように汗みどろになって、全速力で考え初めた。だが、汗は出たが、い・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・ 病人は、彼のベッドから転げ落ちた。 彼は「酔っ払って」いた。 彼の腹の中では、百パーセントのアルコールよりも、「ききめ」のある、コレラ菌が暴れ廻っていた。 全速力の汽車が向う向いて走り去るように、彼はズンズン細くなった。・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・途端に、わたしは全速力でみんなのいる方へ逃げだした。何とも云えず、こわかった。うしろを見るのもこわく、しかし見ないとなおこわくて、ちょいちょいふりかえりながら逃げて、もうつかまっている弟や大人の女のいるところまで辿りついた。 でも、どう・・・ 宮本百合子 「道灌山」
不図眼がさめると、いつの間にか雨が降り出している。夜なか、全速力で闇を貫き駛っている汽車に目を開いて揺られている心持は、思い切ったような陰気なようなものだ。そこへ、寝台車の屋蓋をしとしと打って雨の音がする。凝っと聴いている・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・それですぐまた全速力で飛び出せば無理にのれない事もなかった。しかしその時ほんの一秒か二秒の間躊躇した。そうしてアアア電車が遠ざかって行くと思いながら、その後ろ姿をながめた。そのわずかな間に電車がまた四五間も走ったので、追いつける望みはすっか・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫