・・・喜三郎は彼の呻吟の中に、しばしば八幡大菩薩と云う言葉がかすかに洩れるのを聞いた。殊にある夜は喜三郎が、例のごとく薬を勧めると、甚太夫はじっと彼を見て、「喜三郎。」と弱い声を出した。それからまたしばらくして、「おれは命が惜しいわ。」と云った。・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・観音、釈迦八幡、天神、――あなたがたの崇めるのは皆木や石の偶像です。まことの神、まことの天主はただ一人しか居られません。お子さんを殺すのも助けるのもデウスの御思召し一つです。偶像の知ることではありません。もしお子さんが大事ならば、偶像に祈る・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・――十五日には、いつも越中守自身、麻上下に着換えてから、八幡大菩薩に、神酒を備えるのが慣例になっている。ところが、その日は、小姓の手から神酒を入れた瓶子を二つ、三宝へのせたまま受取って、それを神前へ備えようとすると、どうした拍子か瓶子は二つ・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・ 久しい後で、その頃薬研堀にいた友だちと二人で、木場から八幡様へ詣って、汐入町を土手へ出て、永代へ引っ返したことがある。それも秋で、土手を通ったのは黄昏時、果てしのない一面の蘆原は、ただ見る水のない雲で、対方は雲のない海である。路には処・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ここは佃町よ、八幡様の前を素直に蓬莱橋を渡って、広ッ場を越した処だ、可いか、私は早船の船頭で七兵衛と謂うのだ。」「あの蓬莱橋を渡って、おや、そう、」と考える。「そうよ、知ってるか、姉やは近所かい。」「はい。……いいえ、」といって・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・「出雲なる神や結びし淡島屋、伊勢八幡の恵み受けけり」という自祝の狂歌は縁組の径路を証明しておる。媒合わされた娘は先代の笑名と神楽坂路考のおらいとの間に生れた総領のおくみであって、二番目の娘は分家させて質屋を営ませ、その養子婿に淡島屋嘉兵衛と・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・が、一切の前提を破壊してしまったならドコまで行っても思索は極まりなく、結局は出口のない八幡知らずへ踏込んだと同じく、一つ処をドウドウ廻りするより外はなくなる。それでは阿波の鳴門の渦に巻込まれて底へ底へと沈むようなもんで、頭の疲れや苦痛に堪え・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・とムックリ起上って、そこそこに顔を洗ってから一緒に家を出で、津の守から坂町を下り、士官学校の前を市谷見附まで、シラシラ明けのマダ大抵な家の雨戸が下りてる中をブラブラと送って来た。八幡の鳥居の傍まで来て別れようとした時、何と思った乎、「イヤ、・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
一 深川八幡前の小奇麗な鳥屋の二階に、間鴨か何かをジワジワ言わせながら、水昆炉を真中に男女の差向い。男は色の黒い苦み走った、骨組の岩畳な二十七八の若者で、花色裏の盲縞の着物に、同じ盲縞の羽織の襟を洩れて、印・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 玉子は浜子と同じように、私や新次を八幡筋の夜店へ連れて行ってくれたので、何にも知らぬ新次は玉子が来たことを喜んでいたようだが、はたして私はどうでしたか。八幡筋の夜店というのは、路地を出て十歩も行くと、笠屋町の通りを東西に横切る筋があり・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫