・・・ 趙生は微笑しながら、さっき王生が見せた会真詩の冒頭の二句を口ずさんだ。「まあ、そんなものだ。」 話したいと云った癖に、王生はそう答えたぎり、いつまでも口を噤んでいる。趙生はとうとう待兼ねたように、そっと王生の膝を突いた。「・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・などとこれをちょっと変えれば、そのまま川那子メジシンに適用できるような題目の下に、冒頭からいきなり――現代の医者は鬼である。彼等は金儲けのためには義理人情もない云々と書き立て、――それに比べると川那子丹造鑑製の薬は……と、ごたくを並べ、甚し・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・この小説の冒頭に「雨戸を閉めに立つと池の面がやや鳥肌立って、冬の雨であった」と書いてあります。「私」は書斎で雨を聴き、坂田翁も雨を聴いたのです。「春雨じゃ濡れて行こう」などという雨ではありません。ただ、雨の音を聴いたのです。それだけです。冒・・・ 織田作之助 「吉岡芳兼様へ」
・・・と題した短編の冒頭にある一節であって、自分がかかる落葉林の趣きを解するに至ったのはこの微妙な叙景の筆の力が多い。これはロシアの景でしかも林は樺の木で、武蔵野の林は楢の木、植物帯からいうとはなはだ異なっているが落葉林の趣は同じことである。自分・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・恵子からの手紙の返事はすぐ来た。冒頭に「あなたは遅かった!」そうあった。それによると最近彼女はある男と結婚することに決まっていた。――「犬だって!」犬だって、これじゃあまり惨めだ! 龍介は誇張なしにそう思って、泣いた。龍介は女を失ったと・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・白状なされと不意の糺弾俊雄はぎょッとしたれど横へそらせてかくなる上はぜひもなし白状致します私母は正しく女とわざと手を突いて言うを、ええその口がと畳叩いて小露をどうなさるとそもやわたしが馴れそめの始終を冒頭に置いての責道具ハテわけもない濡衣椀・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ さて、それでは冒頭の言葉にかえりますが、私が、この三日間、すぐにはお礼も書けず、ただ溜息ばかりついていたというわけは、お手紙の底の、あなたの意外の優しさが、たまらなかったからであります。失礼ながら、あなたは無垢です。苦笑なさるかも知れ・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・という百枚ほどの小説の冒頭は、次のようになっている。「黄昏のころ私は叔母と並んで門口に立っていた。叔母は誰かをおんぶしているらしく、ねんねこを着ていた。その時のほのぐらい街路の静けさを私は忘れずにいる。叔母は、てんしさまがお隠れになった・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
・・・その創作集の中でも、最も軽薄で、しかも一ばん作者に愛されている作品は、すなわち、冒頭に於いて述べた入江新之助氏の遺家族から暗示を得たところの短篇小説であるというわけなのである。もとより軽薄な、たわいの無い小説ではあるが、どういうわけだか、私・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・のものが生れるという過程は、人間の精神界の製作品にもそれに類似した過程のある事を聯想させない訳にはゆかなかった。 そのような聯想から私はふとエマーソンが「シェークスピア論」の冒頭に書いてある言葉を思いだした。「価値のある独創は他人に似な・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
出典:青空文庫